中京大学英文学・国際英語学会



なくしたものが戻ってきた話


小田原 謠子

私事で恐縮だが、3ヶ月ほど前、ひったくりにあった。勤務先の雑用に手間取って夜遅くなり、食事を外ですませて帰宅する途中だった。夕食の膳についていたぐい飲みの、氷を浮かせた梅酒で、ほろ酔い気分になり、夜が遅いというのに何の警戒心もなく、無防備そのままにハンドバッグと手提げを両手にさげて、いい気持ちで20分ほど歩き、私の住まう団地の玄関に当たる植え込みを過ぎ、敷地の中に入ったところで、ふいにハンドバッグを持っていた左手が軽くなった。どうしたんだろうと思ったとたん、左側を車がすうっと通り過ぎた。車が走り去ったとたん、ハンドバッグを盗られたのだと気が付いた。ひったくりというのは、話には聞いていたが、それが私の身に起ころうとは、夢にも思わず、ひったくられたと分かった後も、それが本当とは思えず(ぐい飲みの梅酒がまだきいていたのだろう)何か、夢の中でハンドバッグが不意に消えてなくなったような気がしていた。半分現実、半分夢、今の今迄持っていたものが今はないという現実はにわかには受け入れがたい。しかし、ハンドバッグがないのはまぎれもない現実だった。私は呆然としながら、遠ざかって行くテールランプに我に帰り、盗人車を追っかけながら「泥棒!」と叫び、「ひったくりです!車です! 出てきて下さい!」と叫んだ。私の住んでいるのは団地で、棟が12ある。幾つかの家ではまだ明かりがついていた。誰か出てきてくれないかと思いながら、その明かりに向かって叫んだ。すると幾つ目かの棟の角の家のガラス戸が開き、人影がベランダに出てきた。「ひったくりです!」と叫ぶと、その人影がうなずいたようだった。人がいるということは、なんとも心強いものだと思った。それまで忘れていたのだが、その道は行き止まりになっていた。行った車はいずれ戻って来る。そのことに気づいて追いかけるのをやめ、今来た道を戻り坂を上がりかけると、車が行き止まりの方からやってきた。Uターンしてきた盗人車だと思った。あの車だと思っても、わかっていても、車を止めようとして道の真中に出れば、車に轢かれる。道の端に退くしかない。あの車とわかっていながら、止める術がない。出てきてくれた人も私も、道の端に立って、車が通りすぎるのを見ているしかなかった。眼鏡をはずしてハンドバッグの中に入れていたので、車のナンバーもはっきり見えない。何と悔しいことだと思った。

車が行ってしまって、警察に知らせなければと思った。どこで電話を借りようと思って辺りを見ると、私の階下の家に明かりがついていた。あそこで借りようとチャイムを鳴らした。何しろ、鍵もハンドバッグに入っているものだから、どこかで電話を借りなければ、連絡も出来ないのだ。パジャマ姿で出てきた下の奥さんに「引ったくりにあったので電話を・・・」と言うと、何故自分の家でかけないのかという顔をする。鍵もないと事情を話し、居間に入れてもらって110番に電話すると、ハンドバッグに入っていたものの詳細な説明を求められた。財布、小銭入れ、封筒に入ったお札、銀行のカード、クレジットカード、銀行の通帳、判子、眼鏡、鍵、手帳、アドレスブック、名刺入れ、勤務先の図書館のカード、近隣の大学の職員証、我ながら、どうしてこんなにたくさんのものが入っているのだろうと思うほど、いろんなものが入っていた。説明し終えると、これからパトカーが行くから、盗難現場で待っているようにと言われた。来て下さいと言ったわけではなかったのだが、来てくれるというのだ。外に出ると、男の人が近寄ってきて「大丈夫ですか?」と尋ねた。この人がさっき出てきてくれた人なのだと思った。誰が出てきてくれたのかということにも気がつかず、出てきてくれたことにお礼も言っていなかった。動転していたのだ。

すぐにパトカーがやってきた。また説明を求められ、電話で話したことをまた話した。出てきてくれた人は、 車の色、車種をわかっていて、車の ナンバーの幾つかを憶えていてくれた。建物の脇から別の警察官が現れ、 また簡単に説明した。別のパトカーがやってきて、また説明した後、今度は盗難現場を再現した写真を撮ると言う。 盗られたとおぼしき場所に手提げを持って立ち、その脇に盗人車を模してパトカーが止まり、前から、後ろから フラッシュを浴び、「こんな写真撮影は御免こうむりたいです」と言って苦笑しながら、心の中は泣き笑い といった心境だった。

撮影が終わると今度は調書を取ると言う。「お宅で調書を取りましょうか」と言うので、鍵がハンドバッグに 入っていたので、家に入ろうにも入れないことを説明し、研究室に合鍵が置いてあると言うと、車で研究室まで 鍵を取りに行って、それから近くの交番で調書を取ろうということになった。研究室の鍵もハンドバッグの 中だったので、大学の玄関口に着いたところで、警察官の携帯電話を借りて守衛さんに電話して、研究室の 合鍵を持ってきて下さいと頼み、出てきた守衛さんに同行してもらって研究室のある建物に入ろうとして、 その建物にも入れないことに気がついた。研究室のある建物の入り口は、以前は無防備そのままに開けっ放し だったのだが、最近は一定の時間になると鍵がかかるようになっていて、カードキーがないと入れないのだ。 そのカードキーもハンドバッグに入っていたのである。守衛さんにそう言うと、急いでキーを取りに行ってくれ、 それでやっと建物に入り、合鍵で研究室に入り、家の合鍵を探し出し、それから交番へ調書を取りに行った。

交番でそこの駐在さんと二人になると、駐在さんは(といっても、この駐在さんは、この言葉にある昔の田舎の駐在さんというイメージではないのだが)やおら用紙を広げ、事件の発端から始め、ハンドバッグに何が入っていたかを事細かに聞き出し、一つ一つ書き留めていった。調書作成の途中、クレジット・カードのことに思い至り、にわかにクレジット・カードが悪用されていないかと気になった。カード会社に連絡して、カードを止めたいと言うと、こういう場合のために控えてあるのか、電話番号一覧の台紙を取り上げて電話をかけてくれ、私はカードをとめることを依頼した。驚くほどこまごました調書作成がすむと、とうに夜半を過ぎていた。歩いて5分ほどの自宅までの夜道が危ないと、パトカーで送ってくれた。もう盗られるものもなかったのだが。

その夜は、なかなか寝付けず、眠りも浅かった。銀行のカードが気になって、朝、まだ銀行は開いてないだろうと思ったが、緊急連絡先に電話すると、担当の人がちゃんと出た。一つ目の銀行では、年配らしい男の人が電話に出た。落ち着いた声で対応してくれた。カードと印鑑をとめ、「コンピューターで検索しましたが、今のところ被害は出ていません」と安心させてくれた。そして、カードと印鑑は使えないが、当座のお金が必要な時は、パスポート等、身分証明になるものを持って行けばお金をおろせることを教えてくれた。行き届いた対応だと思った。この銀行なら安心だと思った。二つ目の銀行では、女の人が出た。こちらでは通帳も、印鑑もカードもとめなくてはならなかった。その女の人は、もしかしたら、こういう仕事について日が浅かったのかも知れない。向こうが神経質になっているのがこちらに伝わってくる。大事なものを盗られたショックの真っ只中にある人間が、「盗られましたので」と、しかるべき処置を頼んでいる時、それを受取る側の人間の不安感が伝わってくるのでは、こちらの不安はいや増すばかり。この人に処置をお願いして大丈夫だろうかと、不信感さえ起こり、一刻も早く電話を切りたくなった。

ともかくも銀行の口座から、泥棒にお金が引出される心配はなくなった。ハンドバッグに部屋の鍵も名刺も 入っているので、このままではいつ泥棒に入られるかわからないから、ドアの錠も取り替えなければならない。 カギ屋さんに来てもらおうと思った。しかし、電話番号簿でカギ屋を探しながら、カギ屋さんに払うお金もない ことに気がついた。来てもらって、錠を取りかえてもらって、払うお金がありませんと言えば、相手は怒るだろう。 お金がなくてはカギ屋さんに来てもらうわけにも行かない。まずはどこかでお金をおろしてからと思って、勤め先に 休講届けを出し、遅い朝食をとった。どなたかからいただいた名刺を入れたままにしていたことなど思い出し、 私の不精のため大事なものをなくしてしまったことを残念に思った。すると10時を過ぎた頃だっただろうか、 電話がかかった。出ると、緑区の川で立ち木を切っているという人がハンドバッグを見つけたという。びっくりした。 ハンドバッグを見つけたと警察に届け、取りに来てもらうことになっているのだが、なかなか取りに来ない。 自分達はそろそろ場所を移動しなくてはならないので、持ち主に直接知らせた方が早いと思い、ハンドバッグの 中を見たら、あなたの名刺があったので、電話したというのである。急き込むように「中を見てください。鍵は ありますか?」と聞くと、あるという答えだ。ああよかったと思った。鍵を取り替えなくてすんだと思った。 あのドアノブは気に入っていたのだ。大事な物を盗まれた上に自分の生活を変えなくてはならないなんて 何ということだと思っていたのだ。電話の主に、取りに行きますと言い、場所を聞くと〇〇小学校の近くだと言う。 地図を見て探して行かなければと思って地図を広げてはみたものの、そこまで、どうやって行けばいいのか わからない。車に乗らないから、電車かバスということになるのだが、はて路線があるのだろうかと思って いるところへ、また電話がかかり、警察が来たからハンドバッグを渡したと言う。その電話の後すぐ、今度は 警察から電話があり、〇〇交番へ取りに来てくれと言う。来る時に、〇〇警察署に電話してから来てくれと言う。 夜は8時までに来てくれということだった。もう夜遅く外を歩くのは嫌だと思い、明るいうちに行こうと 思ったのだが、いろいろ用があって、行ったのは、ひったくりの後遺症で、ショックのあまり外出が出来なくなって 引きこもる人などを気遣ってアドヴァイスする、警察の担当部局の人からのお見舞いの電話を受けた後、何日か 経った日の8時近くになってからだった。

その交番の最寄りの駅は、私の住まいからはかなり遠くにある名鉄線の「有松」駅だった。警察署に電話して事情を話すと、ちょうど覚醒剤の取り締まりがあってそこに来ていたというあの電話の主が出て、すぐ戻るから交番に来てくれと言う。電話で教えてもらった道をたどり、夜道で一度迷い、引き返して今度は正しい道を進んでいると、後ろから「ご苦労様です」と声がかかった。振り向くと、自転車に乗ったお巡りさんだった。追い越して行く後ろ姿を見ながら、よくわかったなと思い、交番の机に向かい合って腰をおろすと、そのお巡りさんが「お久しぶりです」と言う。はて、私はこの人と面識があったかしらんと思い、「どちら様でしたでしょうか?」と聞くと、「20年前に教わりました」と言う。何と20年前、私のクラスにいたのだそうだ。びっくりして「ああそうでしたか」と言うと、「若かりし頃の先生を思い出していました。あんまり変っておられませんね」と言う。かなり変っていると言わないところが、その人のやさしさなのだろう。ハンドバッグに入っていた名刺を見て、私のものとわかったと言う。「いちおう乾かしておいたんですが」と言いながら、奥から新聞の上に広げて並べたハンドバッグの中身を持ってきてくれた。川の中で見つかったとは、そうなのだ、みんな水びたしということなのだと、あらためて盗難を実感した。ズブぬれだったものは、なかなか乾かない。まだ濡れていた。

盗難にあった時の調書をファックスで取り寄せ、一つ一つ丁寧に、ハンドバッグに入っていたものと、今あるものとを照合していった。盗人が盗んだものを捨てていったのを「置き去り」というのだそうだが、「置き去り」のハンドバッグの中から、財布の中の千円札数枚、封筒入りのお札、小銭容れ、眼鏡二つと、他に小さいものがなくなっていた。いただいた名刺はいくらか変色していたが無事だった。アドレス・ブックはあるにはあったが、インクが水につかって大半が読めなくなっていた。ずいぶん時間をかけた照合が終わり、帰りにはハンドバッグを入れようと思って、往きにはお礼のフルーツケーキを入れて行ったビニール袋に、濡れたハンドバッグともろもろを入れて帰った。

それより先に、エコメール封筒を拾得したという落とし物拾得物の葉書が届いていたのだが、それどころでは なくてそのままにしておいたのを、少し落ち着いた翌週の始め頃、警察署に取りに行った。最近は、郵便の他にも 何とかメールというのがあるので、その一つでやってきたものが道に落ちていたのを、誰かが見つけて 届けてくれたのだろうと思ったのである。窓口で、封筒に何が入っているかわかるかと聞かれ、人から来た 郵便の中に何が入っているかなど、開けてみなければわからないと答えた。すると、むこうは少し困ったような 顔をして、外国との郵便のやり取りはあるかと聞いた。洋書は外国に注文するので、手紙のやり取りはあると 答えると、これはあなたのものかと封筒を見せられた。見ると、私が盗られたハンドバッグの中に入れておいた、 お札入りの封筒だった。心臓がドキンとした。「これは、ひったくりにあったハンドバッグの中に入れてあった 封筒です!」と、思わず叫んだ。警察からの葉書の字はエコメールと見えたのだが、エコメール封筒ではなく、 エアメール封筒だったのだ。私は、言うなれば「もったいない」精神から、きれいな封筒は再利用することに していて(我ながら何というケチケチ精神!)、一度お役を果たしたエアメールの封筒に、お札を入れておいた のだが、目の前の封筒はその封筒だったのである。「ひったくりですか!」と、今度は階上の別の部署に 連れて行かれた。封筒と一緒にメモやら何やらが見つかったのだが、その封筒その他が私のものであることを 証明しろと言うのである。私の物かどうかは、見ればわかるのだが、「これは私の物だから、私の物です」では すまないのだ。幸いなことに、私はその封筒の中に、外国ないし外国人に手紙を出す時に使うアドレス・ラベルを 入れていた。それで警察は、私のものと思って落とし物拾得物の葉書をくれたのだが、あらためて相手を 納得させるに足る説明が要るというのである。

件の封筒の中には、日本のお金の他に、以前スペインに旅行した時の残りの5000ペセタのお札が一枚入っていた。これはどこのお金か、日本円になおすといくらかと尋ねられた。今はペセタからユーロに代わっているから、通貨としての価値はないけれど、紙幣のマニアは欲しがるかもしれないと答え、日本円とのレートはもう忘れたけれど、スペイン語の先生に伺えばわかるかもしれないと言うと、それじゃ聞いて下さいと言う。電話したいと言うと、ここでしていいと言われた。「ここで」とは、警察の電話を使ってということかと思ったら、そうではなく、私が携帯電話を持っていると思ったらしいのだ。あいにく私は、今どき携帯電話を持っていない数少ない一人であった。その人の携帯電話を借りて勤務先に電話し、その先生の御自宅の電話番号を教えてもらって電話すると、御本人が電話に出られた。「驚かせてすみません」と言うと「いやあ、驚きましたよ」とおっしゃりながら、5000ペセタは日本円にして4000円くらいと教えて下さった。こうして、スペインのお金と日本円の入った封筒は私のもの、メモその他も私の筆跡だから、(紙切れに金銭的価値はなく、銀行の自動機からお金を引き出した時の残高証明にも金銭的価値はないけれど)私のものと認めてもらって、めでたく私のもとに帰ることになった。おしまいに、拾って下さった方にお礼をする義務のあることを告げられた。5 パーセントから20 パーセントという(えらく幅のある)お礼を、拾って下さった方との相談の上で差し上げなさいということである。はいと肯いて、思いがけず帰ってきたお金とメモその他を大事に持って帰宅した。

拾って下さった方に電話すると、御本人は留守で、奥さんらしい人が電話に出られた。また電話しますと言って、日をあらためて電話した。私がひったくりにあった翌朝、その人の家の前に、封筒と紙切れが散らかっているのを見つけたのだそうだ。夜のうちに少し雨が降ったようで、紙切れは雨に濡れ、人の足に踏まれた跡があったが、不思議に封筒は無事だった。「あなたは家の前を通っていて落としたんですか」とおっしゃるので、「ひったくりにあったハンドバッグの中にあったものです」と言うと、「えらい災難だ」と同情して下さった。「ハンドバッグも川の中から見つかりました」と言うと「そりゃあよかった。ひどい奴もいるけれど、いい人間もおりますからのう」とおっしゃる。話し方、話の内容から、かなりのお年の方のように思われた。お礼を差し上げたいと言うと、「あんた、お礼なんかええよ。お礼になんか来んでええよ」とおっしゃる。何と欲のない人だろうと思った。あの封筒の中には、大きなお札が何枚も入っていたのだ。ねこばばしてもわかるものではないのに、それをそっくり警察に届けて下さった。おかげで、お金は私のもとに無事帰ってきた。私は話しているうちに、お目にかかったことはないながら、笠智衆のようなお爺さんと話しているような気がしてきた。何ともありがたいという気持ちになって、「お幾つになられますか」と聞くと、ややあって「75歳になります。あなたは?」という応えが返ってきた。先日の電話に出られたのは奥さん、今日の電話に最初出られたのは近くに住む娘さんとわかった。「あなたはお幾つ?」と聞かれて、「もう少し下ですが、似たようなものです」と答えた。何十も若いとは言いにくい気がしたのである。「学校の先生をしておられるようだが」と言われ、「そうです」と答えた。「まあお互い元気でやりましょう」と力強く言われ、「ありがとうございます」と言って、お礼は20パーセントにしようと自分で決めた。

いろいろなことが落ち着いて、事件当日、私の叫び声に応えて出てきてくれた人に、まだお礼を言ってないことに 思い至った。名前も聞いてなかったのだ。多分あの家の人だろうと見当をつけて、八百屋で買った果物を持って行き、 チャイムを鳴らしたが、留守らしく誰も出てこない。チャイムの横に「子供SOS]とシールが貼ってあった。 何のシールか知らないが、「SOS」だから、子供が助けを求めてもいいということなのだろうかと想像した。 夜、電話番号簿で電話番号を調べて電話すると、元気のよさそうな女性が出られた。「あの日、出てきて下さった 方はお宅の主人ですか」と聞くと、「私です」とおっしゃる。夜目でよくわからなかったのだが、ガラス戸を開けたのは 奥さんで、はじめに出て来られたのも奥さんだったようだ。御在宅とわかったので果物を持て出かけ、お礼を言い、 ついでに「子供SOS」とは何ですかと尋ねると、「学校からの依頼で貼っているんですが、近くに公園あるので、 子供が危ない目にあったりした時に、駆け込んでもいい家という意味です」ということだった。誰かが困っていたら 助ける、基本的にそういう考え方のお家なのだとわかった。あの夜、「ひったくりです! 泥棒です! 出てきて下さい!」という私の声を聞いた人は他にもいたのだ。わかっていたけれど、恐いから出なかった、 そういう人のいたことを、間接的に知った。恐いから、あるいは関わり合いになるのが嫌だから、知っているけれども、 知らないふりをしている、そういうう人のいる中で、この家の人は何かの助けになろうとして出てきてくれたのだ。 「何も出来なくて」とすまながる奥さんに、「出て来て下さったので、とても心強かったんですよ。出てきて 下さる方があるだけで、どんなに心強いか」とお礼を言い、果物をさしあげて帰った。

いろんな人の誠実さとご好意のおかげで、私のなくした物は、大半が戻ってきた。ありがたいことだった。


(教養部教授)



The Chukyo University Society of English Language and Literature


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