「ラシクッテ」

柳沢  秀郎



 私の実家は飲食店を営んでいる。住居と店舗が一体になっているので、当時便所は客と共同であり、そのためかなり不便を強いられた。便所で客とばったりなんてこともしばしばあって、その度に小学生のわたしは決まりが悪かったものだ。あの時もそんな悪いタイミングだったのだろう。

 わたしは、便所の個室にいた。外は既に暗い。すりガラスの向こうで雪が降っている。便所の個室は二つ並んで設けられ、両空間をまたいで 100ワットの裸電球がついている。用を足して個室から出ようとしたとき、誰かが便所に入ってきた。わたしは運悪くしばらく個室に閉じ込められることになった。入ってきたのは店の客である。客は個室にまで入ってくる気配はなく、便所の入り口に近い小便器に向かい合ったようだ。客の声が聞こえる。

「うーうっ、さむっ」

 所々剥げ落ちた土壁を見るとも無く見ながら、わたしはいつも通りやり過ごそうと息を殺して個室で立ち尽くした。客は、父の知人のようだった。土建業を営んでいる父は、従業員や仕事の関係者との会合に、昔も今もよく店を利用していて、その晩もそんな場が設けられていたのだろう。アルコールをたらふく飲んだ後の彼の小便はひどく長い。さらに悪いことに、別の客が入ってきた。二人は軽く挨拶を交わす。

「おっ」
「おおっ」

 その声から、父の釣り仲間のみのるさんであることが分かった。みのるさんはわたしの同級生の父親であり、昔も今も気さくな人だ。二人は並んで小便器に。やや沈黙があって、最初に入ってきた客が、

「しっかし、このうちの便所はくせーえなー。」

 わたしは、寒さを忘れた。いや、その瞬間五感が全て途絶えたのだ。眼下には汲み取り式便器の暗黒がぽっかりと口を開けている。自分をこんな気持ちにした根源のようなものが怪物の姿で醜い顔を暗がりからヌーともたげてきそうだ。臭覚が半ば無意識に働いて、周囲の臭いを噛み締めている。毎日母が掃除をしているのは知っていたが、トイレ洗剤と排泄物の混ざったような臭いが冷気に混じっている。この便所が抱えている罪にわたしは身震いした。

「いいじゃん、便所らしくって。」

 みのるさんの声。

 五感はまた失われた。二人は談笑しながら程なく便所から出ていった。ようやく個室から出ると、寒さは次第にぶり返したが、それは先ほどの妙な寒さではなく、馴染みの寒さにもどっていた。

 みのるさんは父の遊び仲間で、釣りだのゴルフだのと父が道楽の口実に使うものだから、しばしば母の愚痴のタネにされるが、わたしは今でも彼に一目置いている。彼によって救われた便所は水洗になり、今ではコンピューター制御でいつでも便座が温かく、明るく清潔な空間になっているが、あの頃の「ラシサ」はもうない。

                                             (教養部非常勤講師)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last Updated: Monday May 20, 2002

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