チャルトリスク・コレクションのレオナルド・ダ・ヴィンチ

小田原  謡子



 レオナルド・ダ・ヴィンチの≪白貂を抱く貴婦人≫が日本にやってきて、大手のデパート内の美術館で展示されていると 新聞の大きな折り込み広告で知って、行こう、行こうと思っていながら行けないでいたのを、暮に暇を見つけて見に行った。 ≪白貂を抱く貴婦人≫だけが展示されているとは思わなかったが、他にどんな作品が展示されているとも書いてなかったので、 私は≪白貂・・・≫を見ようと思って出かけたのである。行く前に、これまで聞いたことのなかったこの絵はどこの美術館の ものかともう一度広告を見ると、チャルトリスキ美術館と書いてあった。チャルトリスキ美術館とは聞き慣れない名だが、 どこの国のものなのかとさらによく見ると、この展示会が、外務省の他にイタリア大使館、ポーランド大使館の後援によるものと 書いてあった。イタリア大使館の後援は、これがダ・ヴィンチの作品だからだろう。とすると、チャルトリスキという美術館に ポーランドと関わりがあることになる。これはポーランドの美術館なのだ。

 ポーランドという国について私の知っていることと言えば、ショパンがポーランド人であること、映画で見た『隊長ブーリバ』 の中で、ブーリバの長男がポーランド貴族の娘に恋をし、父の命に背いて娘を助け、父に殺されるというストーリーと、キューリー夫人が ポーランド出身であること、また、いつだったか、イングランド南部にある古い大学のコレッジに泊めて頂いていた時、 ランチ・テーブルで隣あわせになったフェローのお名前がわかりにくかったので聞き直したら、「私はポーランド人よ」とおっしゃり、 ポーランドの人の名前はわかりにくいのだと思ったこと、ポーランドについての知識は私にはそのくらいしかない。行く時は ポーランドの美術館の絵ということはほとんど意識せず、今まで知らなかったダ・ヴィンチの絵を見ようということしか念頭になかった。

 行ってみると、絵だけではなく、七宝やガラスで飾られた写本、時祷書、十字架、壷、大杯、小鉢、タペストリー、レリーフ、 鎧、盾、馬具等、さまざまなものがあった。展示品の傍にある説明文や音声ガイドの助けを借りて館内をゆっくり見始めると、 入り口近くにあった最初めの説明で、チャルトリスキ美術館は、18世紀末にポーランドが近隣のロシア、プロイセン、 オーストリアの3強国に分割され、国としてのポーランドが123年にわたってヨーロッパの地図から姿を消すことになった その初めの頃、国王が廃位され、文化が破壊され、よきものが分散し、なくなってしまうことを憂えたイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人が、 上質の美術品、歴史的に貴重な品々といったものを国中から集め、かつての栄光の歴史、民族としてのアイデンティティー、 国としてのアイデンティティーを伝えようとしてはじめたプワーヴィのコレクションがもとになっていることがわかった。ヤン3世という その国では有名な王様がいたことなどを初めて知った。

 そこへ行けばポーランドの文化がどんなものかわかるような美術館を作るというのが、設立の主旨であったが、各地の美術品を 買い集めていくうちに、ポーランド以外の国のものも収集され、ダ・ヴィンチの≪白貂・・・≫も、第二次世界大戦中ドイツに 接収されて、今は行方不明になっているラファエロの≪若き男の肖像≫も、そのようにしてコレクションに加わった。この二つの絵は、 夫人の息子であるアダム・イェジ・チャルトリスキ公爵がイタリアで購入したものであるという。≪白貂・・・≫は、買い入れた時は 題名もモデルもさだかではなく、フランス王フランソワ一世の愛人がモデルと思われていて、夫人はそれに基づいて絵に ≪ラ・ベル・フェロニエール≫と書き込ませたという。後世の研究で、モデルはミラノのイル・モーロすなわち ルドヴィーコ・スフォルツァに愛された16才のチェチリア・ガッレラーニであるという説が有力になり、展示の説明も、 その説に基づいている。理知的な美貌の持ち主だ。

 ルドヴィーコ・スフォルツァと言えば、ベアトリーチェ・デステ、つまりルネサンスの才女イザベッラ・デステの妹であり、 あのルクレツィア・ボルジアと結婚することになるエステ家の跡継ぎアルフォンソ・デステの姉であるベアトリーチェ・デステが嫁いだ相手だ。 申込がわずか1ヶ月遅かったために、自分ではなく妹が、自分の嫁ぎ先マントヴァ公国よりもはるかに大きなミラノ公国の事実上の支配者に 嫁いだことに対するイザベッラの複雑な感情を云々する著述家(塩野七生)もいる。ベアトリーチェは16歳で嫁ぎ、22才になる少し前という 若さで死産の後死んだのだが、一度ならず婚礼を延期された後ベアトリーチェが嫁いだ時、ミラノの宮廷にはルドヴィーコの愛人がいたという。 ベアトリーチェがミラノ宮廷に入った翌年、当然と言えば当然のことながらベアトリーチェの嫉妬から来る家庭不和のため、その愛人は、 おそらくルドヴィーコからの多額の持参金をもって、他の男に嫁がされた。それがこのチェチリアだったのか。芸術と芸術家の保護者として 名高いフェッラーラのエステ家に生まれ、マントヴァのゴンザーガ家に嫁いだイザベッラは、自身も芸術の保護者として知られているが、 妹の結婚式に出席するため訪れたミラノで、ダ・ヴィンチとブラマンテが結婚式の祝祭の監督となっているのを見て、ルドヴィーコが 優れた芸術家を手許に置いていることにいたく刺激され、すでに人に知られていた自分の教養をいっそう磨くことに心を砕き、身の回りに学者、 芸術家を集めたという。ダ・ヴィンチがチェチリアの肖像画を描いたことを知っていたイザベッラは、チェチリアにダ・ヴィンチの描いた 肖像画を貸してくれるよう依頼し、翌月には返したらしいが(ジャニス・シェル「チェチリア・ガッレラーニ」)、ルドヴィーコ失脚後 ミラノから逃げてマントヴァに立ち寄ったダ・ヴィンチに自分の肖像画を描いてもらいたがったという。彼女の肖像画は描かれなかった。 素描が残っているだけである。そして、チェチリアの肖像画は、何百年の後、当時の美しさをとどめて、ここに多くの人々を引き付けている。 チェチリアにはダ・ヴィンチを引き付ける何かがあったのか。彼女の父親は彼女が7歳の時亡くなっているが、彼女に教育を施した 母親のおかげで彼女はラテン語も堪能であり、ラテン語のみならずイタリア語でもたいそう淑やかに詩を詠み、哲学者や神学者の 前でも生き生きと議論した楽しい人柄の女性で、優雅なサロンの女主人であり(ジャニス・シェル)、その知性をルドヴィーコに 愛されたという。私が書物でのみ知り得る歴史が、目の前にあった。

 私はこのコレクションの収集が、国を失うという大きな不幸の中で、文化のアイデンティティー、民族のアイデンティティーを 守ろうという情熱によってなされたことに感銘を受けた。チャルトリスキ家とコレクションの歴史をさらにたどれば、1830年、 ロシアに対して国民が立ち上がったワルシャワ蜂起で、臨時政権である国民政府主席であったアダム・イェジ公爵はロシア皇帝から 死刑の判決を受け、財産を没収されることとなったが、ロシア兵がプワーヴィ入りする直前、当時84歳だったイザベラ公爵夫人の手により、 貴重な美術コレクションと蔵書は、近郊の農民やユダヤ人の支援を受けて難を逃れた。後にコレクションは、蜂起の失敗後多くの ポーランド人が移り住んだフランスに移され、アダム・イェジ公爵がパリに購入した館で30年以上にわたって保管された。 館では毎年優雅な夜会が催され、ショパンが見事なピアノ演奏を披露した。パリの上流階級の間で人気を博したこの夜会の収益金は、 ポーランドの政治活動への支援や、ポーランドからの移民の救済にあてられたという。(ヤヌシュ・ヴァヴェク「チャルトリスキ美術館の あゆみとレオナルド・ダ・ヴィンチの≪白貂を抱く貴婦人≫」)

 ショパンの名がここに出てきたことに興味を引かれ、私はあらためてショパンの評伝をひもといた(遠山一行『ショパン』)。 革命家たちと交友のあった20歳のショパンは、おそらく友人達の強い勧めによって、出発を延ばし延ばしした後、蜂起の3週間前ワルシャワを離れ、 ウィーンへ行き、最終的にパリに落ち着く。蜂起の失敗の報に接したのはシュツットガルトでのこと、有名なジョルジュ・サンドとの 艶聞はパリ到着後である。友人達をワルシャワに残して発ち、蜂起の失敗と友人達を襲った苛酷な運命を知った後パリに暮らした頃の ショパンはどうだったのだろうか。彼は生きていたのだろうか。彼は30代の終わりに亡くなっているから、パリ時代は彼の後半生になる。 ロシア官憲の厳しい検閲を恐れたためか、民族意識の目覚めや彼自身の政治意識にふれる文章はほとんど見出すことが出来ないそうだが、 自分の気持ちを表現するには、言葉よりも音楽の方が易しいと、8歳の時父にあてた手紙に書いているショパンは、自分の感情を作曲と 演奏によって表現したのだろうか。

 ショパンの曲のすべてではないが、あるものは聴く人の魂をゆさぶるように激しい。国を持たない若者は自らの情熱を音楽に表現し、 かの公爵夫人は失われる文化を惜しんで美術館を作った。私は、美術館の創設者の情熱に打たれたのだが、それと同時に、時を経た後、 創設者の意図とは離れたところで人が美術品を鑑賞しているかも知れないことを思った。今回の展示会の目玉商品となっているのは ダ・ヴィンチの≪白貂・・・≫である。イタリア・ルネサンスを代表する芸術家の作品だが、創設者である夫人の息子が買い入れたということを 除けばポーランドとは関係がない。その作品が美術館の最も有名な所蔵品となり、美術館に人を引き付けている。絵に引かれてやって来た人々は、 この美術館がポーランド文化の粋を集め、ポーランド文化を伝えることを目的として作られたものであることを知り、その具体的な品々に ふれることになるが、それは副次的なものである。

 人々が最も強い印象を受けるのは≪白貂・・・≫によってであろう。少なくとも私の場合はそうだった。人の情熱とは別に、物はそれ自体の 力を持つということなのだろう。ダ・ヴィンチの≪白貂・・・≫は、他の品々を超えていた。ダ・ヴィンチの吸引力で、人は美術展に行き、 ポーランドの美術も見て帰る。言うなればイタリアの力を借りてポーランドの文化と歴史が世に知らされたのである。それでもいいのかも しれない。ポーランド文化に接することを目的としてではなく、ダ・ヴィンチの名画を見ることを目的としてやって来た人が、たまたま ポーランド美術を目にし、それまで知らなかった文化を知ることになれば、それは広い意味で、やはり、夫人の情熱に貢献したということに なるのかもしれない。展示会のありようが夫人の意にそぐうそぐわないは別としてではあるが。

                                        (教養部教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last Updated: Monday May 20, 2002

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