私のなかのイギリス

細川  眞




 シェイクスピアの生誕地、ストラットフォードのロイヤル・シェイクスピア・カンパニー (RSC) 劇場の近くに「ダーティー・ダック」というパ ブがある。ここは劇場関係者がよく利用するパブで有名で、その壁の至るところに過去に RSC 劇場に出演した俳優たちのポートレート写真が貼ってあるが、この夏同地に滞在した時、その中に日本の俳優真田広之が加わっ ているのを発見した。これは昨年 (1999年) 日本人として初めて演出家蜷川幸雄が同劇団の公演のため『リア王』を演出し、これ又日本人俳優として初めて RSC の劇に真田広之が道化役で出演したことによろう。筆者はこの劇を残念ながら見ていないが、その劇評はよくないものの、真田広之の演 技は評価されたようだ (Shakespeare Quarterly vol. 51 [2000], pp. 227-29)。 この劇評を書いたシェイクスピア研究所のラッセル・ジャクソン博士にお会いした時そういっていたので間違いない。写真が貼られたのは、単に初 めて日本の役者が RSC 劇に出演した物珍しさのためだけではなかったようである。

 経済の国際化が叫ばれて久しいが、この日本人の演出家、俳優によるシェイクスピア本家本元への進出は、新世紀を迎えるにあたり日英関係にお いて、文化の国際化も本格的になってきたことを如実に示している一大事 件といっていいであろう。特にこの公演は、日本の劇団がイギリスの劇場で劇を上演したというものではな (そうした日本文化を売り物にするよ うなものは過去にいくつもある)、イギリスの劇団の年間のレパートーリーの一プロダクションとして、日本人演出家が演出をし、RSC のイギリスの役者の中に一人の日本人役者が加わり、しかも日英両国で上演したという点で、つまり相互浸潤的に対等で文化の国際化が行なわれたという点で、 過去に例になく画期的なことのように思われる。

 このような日英の文化交流の対等な国際化を目の当たりにして、今ひとつのこれ以上に既に確立したと思われていた対等な日英の文化交流で、ある事件を思いだし、対等なレヴェルでの文化の国際化に伴うであろう今後 の困難さを危倶する。ある事件とは、ある日本の学会が国際的論文集を刊 行した時、一人のイギリス人学者が日本人の論文は立派だが西洋の方法の 物まねだと批判し、暗に日本人は「日本的」な方法で書けと示唆したのを受けて、一人の日本人学者がそうした批判は西洋中心主義で東洋の特殊化ひいては差別を招来するオリエンタリズムだと反論した事件である。反論 の背景には、西洋は非西洋に西洋の模倣を要求するが、しかし完全な模倣を嫌うとの歴史的西洋観がある。更に又、「日本的」な方法という見方の「日本的」とは、西洋が歴史的に造り上げてきた「日本的」であって、そもそもどの「日本的」なものにも、普遍的「日本」固有のものはない、との文化構築論がある。

 上の論争の教訓は、今後の対等な日英文化交流の発展において、従来の 「イギリス的」、「日本的」という見方を本質的なものとして前提にしてはいけないということであろう。これほど多くの日本人がイギリスに行っている時代に、未だに日本では、「イギリス的」なものとして、ビールはビターだ、リーフの紅茶の入れ方は・・・ と、テレビやカルチャーセンターでは教えているが、今やイギリスで一番人気のあるビールは日本と同じラ ーガーの「ステラ」であり、ホテルのアフタヌーンティの紅茶はティーバ ッグのそれである。(ストラットフォード近郊のお城のようなホテルでの アフタヌーンティもティーバッグだった。) 反対に「日本的」なものの代 表がいつまでも「能」や「歌舞伎」でもあるまい。相互浸潤する国際化においては、まず従来の「イギリス的」、「日本的」と言うものから検証しな ければならない。
                                                   (文学部教授)



The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last updated: Friday March 24, 2001

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