私の学生運動

中島信子(昭45年卒 江東区立深川図書館勤務)



戦後50年ということで、この50年についての企画を新聞紙上でいくつか読む機会があった。1960年代から70年代にかけて、全世界を巻きこんだ若者たちの反逆も報じられ、日本の学生運動も東大の安田講堂の紛争を筆頭として論じられた。

「1960年代後半は、各地の大学や高校などで学園紛争が頻発、戦後教育のありょうを根幹から揺るがした」(毎日新聞)時代だった。

又、当時はベトナム戦争の最中で、反戦運動も高揚し、アメリカのベトナム政策が劇的に転換された時でもあった。そして、中国にはあの有名な文化大革命。今になって質の高い中国映画によって当時をうかがい知ることができるが、あの頃は何のことかよくわからず、造反有理ということばだけは皆の口にのぼった。

そんな時代背景の中で、私は '66年4月から '70年3月までの4年間を中京大学で過ごした。中京大学を舞台とした'60年代後半の自分の4年間を少し振り返ってみる気になった。

高校時代、新聞部に所属していた関係から、大学でも新聞部に入ろうと思い新聞部室への階段を登っている途中で、新聞部室の更に上の階にあるユネスコというサークルの上級生に出会った。「君、ユネスコって知ってる?」とその男子学生は、一方的に熱っぽくユネスコとはどういうものかをまくしたてた。その熱弁にいとも簡単に陥落し私はユネスコサークルに入った。“戦争は人の心の中で生れるものであるから人の心の中に平和の砦を築かなければならない”というユネスコの精神にのっとり平和のための様々な活動をするというサークルだった。おそらく、中京大学の中で唯一、政治的意味あいを持ったサークルだったと思う。ここで世の中の出来事や政治的な話題を話し合うという生活をはじめることになった。と言ってもほとんどオシャベリしたり歌をうたったりとたわいのない日々でもあった。やがて、ベトナム戦争反対とか、伊勢湾観艦式紛砕、エンタープライズ阻止などというシュプレヒコールをあげながら栄への町をデモ行進するというはじめての経験もここから始まった。しかし、政治的話題や行動も“大学生らしい”生活の一つの形態として、ファッションとして関っているという側面もあった。もう一方では英文科生らしく、オシャレや恋やダンスパーティーという生活もあった。しかし、英会話の勉強のために 映画を観たり、留学生会館へ行って会話の訓練をしたり、ガイジン気取りで英語をペラペーラとしゃべる男子学生たちに私はどうしても同化できず、英文科の中の交友関係よりもユネスコサークルに生活の比重を求めていった。 1,2年のうちは、政治もデモも恋もファッションであり、山手通りのオシャレな喫茶店で交す会話のようなものだった。牧歌的であった。一方、一般の中京大学のイメージは、体育学部があることもあり、応援団が異様に長いガクランを着て、群れをなして、ジャリだらけのキャンパスを潤歩し、町では暴力事件を起すこともあった。どちらかと言えば右翼的と見られていた大学でもあった。

3年生になった頃、「学園を明るくする会」という組織ができた。ユネスコのメンバーも大半がそこに関わっており、私にとっては、政治や世の中のことについて語り合う人間関係がユネスコ以外に広まったことになった。商学部、法学部、体育学部の学生もいた。奥まったところにちゃんとしたサークル室を与えられていたから公認の組織であったと思う。学園民主化闘争の一環で、食堂の席を増やせとか女子トイレに鏡をつけてなどという要求を書いたビラをトイレに貼ったりというようなことをした。正義の行為というものは、人にまともに見られると恥ずかしいという思いがある。隠れて行う意志表示は秘密めいていて、私は嫌いではなかった。

大学の民主化や、授業料値上げ反対などをかかげた紛争は全国に広がり、この頃、医学部から端を発した東大紛争もはじまった。運動が激化すると共に運動団体の系列も明確に分かれていった。ユネスコも学園を明るくする会も、いわゆる民青系だった。私が入部しようとしていた新聞部は過激な論調の新聞を発行していた。民青系ではなかった。もしあのまま新聞部に入っていれば、ヘルメットとゲパ棒という集団の一員になっていたかも知れない。

演劇部に、同じ学年の心理学科の男子学生と国文科の女学生がいた。恋人同志のようだった。真面目で情熱的に演劇に取り組んでいた。彼らはやがて全共闘系のセクトの名前の入ったビラを配りはじめた。私は彼らを敵というよりも、私たちとは違う戦術を選んだのだと思った。まじめさ、ひたむきさを感じさせる彼らに共感するものがあった。でも、もっとも基本的な感覚として、ヘルメットとゲパ棒が世の中の人の支持を得られるとは絶対に思えなかった。私はフランスデモが好きだった。道いっぱいに広がって手をつなぐゆるやかなデモ行進で、さあ、みなさん一緒に行動しましょうという開放的な明るさがあった。みんなの支持を得られない運動に展望はないということは、どんなに未熟であっても感覚として理解できた。

学園紛争の激化は、戦術をめぐってのセクト同志の対立となり、敵が誰かが見えなくなった時、急速に大衆の支持を失ったとものの本にはあった。 それはとてもわかる。東大で、大学封鎖を主張する全共闘に反対した民青は、全共闘の敵となった。私たちとは異った戦術を選んだ演劇部の彼らも、だとしたら敵なのだろうか。4年の冬、安田砦の攻防戦と騒がれた東大の紛争の末期に、私のまわりからも何人かが動員されて行った。それから数ヶ月後の浅間山荘の惨劇で、新左翼・全共闘の幻想は完全に消滅したと私は思っている。

あの演劇部の彼らはその後、どういう軌跡をたどったのだろうか。学園を明るくする会のメンバーは、卒業を迎えた年の夏、卒業旅行と称して小型パスを借りて琵琶湖キャンプに出かけた。パスの車体には“中京大学学園を明るくする会”のたれ幕をかかげて。当日は、私達の運動を支持する法学部の教授が万歳をして見送ってくれた。

私はと言えば、自分がいかに生くべきかいまだ定められず、ずっと悩みつづけていた。文学部の学生らしくもっときちんと文学を勉強したいという気持ちが強かった。とりあえず東京に行こうと思っていた。

英文科生としては本当に籍をおいただけのダメ学生だったけれど、中京大学での'60年代末期の4年間は、まさに時代を生きたといえる日々だった。


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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