ルート66東海道

神田 和幸



「ルート66」はアメリカのロスアンジェルスとシカゴを結ぶハイウェーだが、今はほとんど使われていない。今では昔のテレビ映画の題名として人々の記憶に残っているにすぎない。

テレビ映画の方は白黒テレビ時代の人気番組の1つで、二人の若者がシカゴからロスアンジェルスまでドライブしながら、途中の町々でいろいろな物語が展開するというようなストーリーだったと思う。「思う」というのは、この番組を見た記憶はあるが、私が小さい頃なのと、あまりに昔なので、ウロ覚えだからである。よく覚えているのはテーマソングの方で、レコードやテープで何度も聞いた。アメリカの黄金時代を象徴する、いわゆるオールディーズの1つで、軽快なテンポの明るい歌である。1962年にナット・キングコールの歌でヒットした。ナット・キングコールという黒人歌手はオールドファンなら誰でも知っているが、少し若い世代には娘のナタリー・コールの方が知られている。さらに若い世代は両方とも知らない。マニアックな趣味だが、私はキングコールよりも主演俳優のジョージ・マハリスの歌の方が好きである。

R66はアメリカ合衆国を長方形に例えると、左下の隅がLAで、右上の隅がボストン。そのボストンの左に5大湖があり、その湖の付根にシカゴがある。そのシカゴとLAをほぼl直線につなぐ幹線道路だった。今はI−20というフリーウエイを使う方が速いので、R66はその脇道として所々に残っているにすぎない。ちょうど、昔の東海道は国道1号線になり、所々旧東海道が残っているのと似ている。

若い頃アメリカに憧れていた私はこのR66を走るのが夢だった。できればマスタング・マック・ワンで。マスタングというのは、日本ではムスタング・マッハ1と呼ばれた名車で、スピード、耐久性、操縦性にすぐれたアメリカ車の最高傑作の1つだ。レースでも活躍し、いろいろな映画にも登場した。うれしいことにアメリカでは今でもこの車が走っており、テレビ映画でも見かける。脱線ついでにクルマの話しをすると、昔の名車として私が憧れたのはこのマック・ワンともう1つフォード・コブラだ。コブラは一部のマニアしか知らない高級スボーツカーだが、初めて見たのは、これも昔の白黒テレビ映画で、アン・フランシス扮するセクシーな女私立探偵が活躍するドラマの中で、主人公が運転していた。小さなボディ(カローラ位だと思う)に5000ccの超高馬力のエンジンを搭載しているので、アクセルを踏むと、あまり高回転なため、タイヤが空回りしてスタートができないから、アイドリングのゆっくりとした回転の状態でクラッチをつなぐと猛スピードでダッシュスタートするのだそうだ。

話しが脇道にそれたが、R66は脇道だから道草をお許し願いたい。R66は旧東海道に似ているといったが、ドラマ「ルート66」の若者二人の車の旅は、時代背景がまるで違うが、東海道中膝栗毛に似てなくもない。違うのは話しの内容がコミカルでないことくらいだ。日本でも、奥の細道のルートをたずねて歩く旅や東海道を歩く趣味の人が多いが、私のR66ドライブへの憧れはそれに近い。またまた脇道で恐縮だが、私の友人で旧東海道を歩く趣味の男がいて、まもなく京都だという。彼によれば昔の東海道は10日程だそうだが、彼の場合は1度に踏破するのはたいへんだし、その必要もないという。まず品川から歩き始めて、1日で川崎まで着いたら、そこで止める。そして、また別機会に今度は電車やバスで、川崎の前回止めた地点に戻り、続きを歩く。そしてまた、疲れた所で止めて、また次の機会にするのだそうだ。この方式だと、休みの都合や体調に合わせて無理なく踏破できるという。なるほど、それはそうだ。しかし私の場合、アメリカに何度も通うわけにはいかないから、やるなら一気にやるしかない。

その機会は1982年に訪れた。1年間のアメリカ留学の機会があり、ぜひ実行しようと考えた。まず車だが、マック・ワンがなかなか見つからない。程度の良いのは、丁寧に乗っているから高い。安いのはボロボロで長距離には酎えられない。アメリカは車検制度がないので、中古車の程度は天と地の差がある。たまたま手に入れたのが、これも私の憧れの車の1つであった1960型クライスラー・ニューヨーカーのステーションワゴンだった。8人乗りの大きなヤツで当時としては珍しいオール電動式。エアコンが前後に2つついており、ベンチシートは大人でも真横に寝られる広さがある。長旅にはもってこいだ。R66走破に向けて、まず足慣らしにカリフォルニア州内で、LAとサンフランシスコをI−5で住復。これは誰でもやることだ。次にLAからシアトルを通ってカナダのバンクーバを往復。これで、アメリカ合衆国を長方形に例えれば、縦を往復したことになる。これはR66片道にほぼ匹敵する。いよいよR66だが、どうせなら映画「卒業」なみにLAとNYを走ろうと思った。長方形の対角線である。日程は1カ月。途中にサンタ・フェ、シカゴ、カンザス・シティルイビル(ケンタッキー)の友人を訪ねながら、最後にニューョークの友人宅を訪問して帰る計画だ。

その時はLAの近くのノースリッジ(最近の大地震の震源地)に住んでいたが、その土地のアメリカ人の親友にその計画を話したら、それはいいという。アメリカ人はドライブ好きでどこでも車で行くが、LAとNYはあまりに遠いから、飛行機しか乗らない。しかし長距離ドライブは人々の生活やアメリカをよく知ることができるから、ぜひそうしろと勧めてくれた。彼自身、前任地のワシントンからLAまで家族でドライブしてきて、一生にない経験で良かったという。それで、と彼は質問してきた。ニューョークで車を売るのは大変だが、どうするのだと聞いてきた。いつもながらの優しい心配りだが、私は車で帰って来ると答えた。彼は、では行きは飛行機で現地で車を買うのかと尋ねてきた。私は英語の表現を間違えたのかと思い、いや車で往復するのだとあらためて強調した。すると彼は一瞬びっくりした顔をしたかと思うと、突然机を叩いて大笑いを始めた。私は何のことかわからず、あっけにとられた。彼は2〜3分笑いころげた後、すまん、すまんと言って説明してくれた。確かに彼はLA〜NYドライブを勧めてはくれたが、あくまで片道だと思っていたという。いくらドライブ好きのアメリカ人でも往復まではしない。どちらかは飛行機が普通だという。私は1ケ月をかけて往復するというと、ようや〈理解できたらしく、それは体力もそうだし、車も大変だから充分注意した方がいいという。長距離ドライブでは車の故障も多く、途中で車を放棄して買い換えたり、飛行機に乗換えることも多いそうだ。とくに中古車は問題が多い。私もそういう心配はあったので、予行演習をして、どこが脆いかを知っているし、その部品は予備を積んでいくことを説明した。彼からは砂漠の運転法や危険なルートを教えてもらい、またAAA(全米自動車協会)でルートマップを作ってもらうこと、給油地点を事前に計算しておくこと、またできるだけフリーウエイを走ることを助言された。私が心配した宿泊についてはモテルがいくらでもあること、緊急時は彼に電話すればいろいろ手配してくれることなど、心配ないといってくれた。これらがなければ相当危険な旅ではあったろう。

R66はドラマではシカゴからLAまで2000マイル。しかし私の場合はその逆のルートでLAからシカゴ、そしてニューヨークへ向い、帰路はやや南に下がって、ケンタッキーやアーカンソーを通ってテキサスから同じルートで帰ることにした。南下したのは私のもう1つの趣味であるC&Wの本場ナッシュビル(テネシー州)やバーボンの酒屋や西部を回って見たかったからである。日程が許せばジョージアやフロリダへも足を伸したいと思ったが、あまりに欲張りすぎて危険を増やすのもよくないと思い断念した。歌詞の中では、シカゴからセントルイス、ジャプリン、オクラホマ・シティ、アマリロ、ギャラップ、フラッグスタッフ、バーストウ、サンバナディーノ、LAというルートだが、なじみのない町が多い。私の場合はカリフォルニアからだから逆ルートになるが、一応説明しておこう。LAから混んでるサンディエゴ・フリーウエイを抜けて都会から田舎になるな、という感じが始るのがサンバナディーノだ。とくにどうという町ではないが、東名を東京から走れば、海老名のサービスエリア、名古屋からなら岡崎あたりで、ようやく町を抜けたという感じがする。LAからサンバナディーノまでは3時間位で、距離は遥かに長いが、イメージはそんな感じだ。バーストウはカリフォルニア州最後の都市、すぐにアリゾナ州になる。フラッグスタッフはアリゾナの町。キャンプ地も多く、グランドキャニオン旅行の入口。ギャラップはニューメキシコ州。私の旅でもちょっと回り道をしてグランドキャニオンに寄ったので、フラッグスタッフから入って、ギャラップからI−20に戻った。あとはひたすらフリーウエイをテキサスへ。アマリロは途中の大きな都市、歌にはないがダラスを抜けて、オクラホマ州都のオクラホマ・シティ、ここはかなりの都会だ。そしてミズリー州ジャプリン。近くのスプリングフィールドの方がはるかに有名だが、なぜこの町が登場するのか不明。そして大都市セントルイスから、シカゴである。実際に走ってみると不思議にこれらの町で宿泊ないし休憩することになる。給油、食事、休憩、宿泊など、車を停めるのに適当な時間間隔になるのだ。

アメリカを走ると誰でも感じるが、本当に広い。同じように横断ドライブをした年配のある先生は、始めは快調に飛ばして楽しいドライブだったが、その広さを感じるにつれ次第に不機嫌になったといわれた。日本軍は本気でアメリカ軍と戦う気であの戦争を始めたのかと、当時の軍首脳の知識のなさと不見識に怒りがこみあげてきたのだそうだ。日本は小さな国だから、あっというまに占領できる。事実、戦後、駐留軍が日本のすみずみまで支配した。しかるに日本は朝鮮半島だけではもの足らず、中国大陸に進出したばかりか、アメリカとも戦争を開始した。日本はハワイを奇襲したが、カリフォルニアにさえ上陸できなかった。もし、上陸できたとしても、せいぜいカリフォルニア制圧が精一杯。ロッキー山脈を越えて、大平原を越えて、大河をいくつも越えて、さらにアパラチア山脈を越えてワシントンに至るなど考えられない。一度でもここを走ったなら、あの戦争のバカさ加減がわかるというものだ。

私はグランドキャニオンで地球の歴史を感じ、テキサスの地平線に沈む太陽を見て地球の広さを感じた。テキサス州を1日で500マイルを走った時など、平原がずっと続き1日中同じ風景なのに呆れると同時に何ともいえない感動があった。

旧東海道をテクテク旅いて自然を楽しむのと、R66をドライブするのは、発想としてはよく似たもので、1種のノスタルジーだ。しかし、かたや徒歩、かたや高速ドライブという手段の違いは大きく、またかたや約600キロ、かたや2000マイルと距離がまるで違う。そして東海道は海と山の間の猫の額のような平地をくねくねと這っている細道なのに対し、R66は平野の真ん中、山中、砂漠を真っ直ぐに抜ける道である。日米の国土の差をはっきりと表している。R66ドライブはアメリカを知るには確かに良い経験になった。今でもルート66の歌を聞く度、10年以上前のこの経験が思いだされる。"Get your kicks on Route 66"


(教養部教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Nov 19, 1998

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