ある前衛映像作家のエイズ死とパンチ&ジュディー

岩田 託子



1989年8月 4日 自称俳優でパンチ&ジュディーもやる若者を『ザ・ガーデン』に(出演し ないかと)誘う。
1989年8月17日 ポロックのシアター・ショップへ行き、ロバートから“パンチ&ジュディー” のブースを見せてもらった。
1990年4月某日 ワトフォードの長い午後、私はくず屋から切手や本や小さな絵を抱えて帰っ てきた。そこでは年をとったパンチのようなおばあさんの店主が、静かな気 品をもって行ったり来たりしていたが、彼女は近眼で髪は真っ白だった。

以上は『デレク・ジャーマンの日記』関美冬訳(キネマ旬報社、1992年)からパ ンチ&ジュディーについての記述を目につくままに拾ったものである。

デレク・ジャーマンといえばピーター・グリーナウェイとならび英国を代表する 前衛映像作家だが、 グリーナウェイがまだしもナラティヴと様式で「映画」を見せてくれるのに対し て、ジャーマンの方は「映像」を見るつもりで出向かねばならない、 といえばおおよその前衛度を計ってもらえるだろうか。

ジャーマンのフィルムのうちでは比較的見やすい『エドワードU世』にしても 大時代風のコスチューム・プレイを期待してもまったく別物。 生々しい裸をさらす男どうしが延々と愛し合う(要するに美少年愛にあらず)場面で開幕する。 王権をめぐるポリティックスに男が男を愛するその愛の真撃さ、捨ておかれる王 妃の切なさが交錯し、妖しい画面をつくっていく。 子供を保育園に預けて白昼観賞する自分が不良に思え、さすがに後ろめたい感じがしたものだ。

これまでにもジャーマンのフィルムを見ていたのだが『エドワードU世』でやっ と身近に感じることができて、そしてこの妖しさも気になって、 映画館で手に入るジャーマン関連のものを全部買いもとめ散財してしまった。

そして遅ればせながらジャーマンがエイズに罹り既に発症していることも知った。 したがって日記は熱の具合、食欲、 治療の様子などを克明に記録する闘病日記でありながら、衰えない創作への執念 を記述し、緊迫していく。 のみならず雑感風に綴られる庭づくりの楽しみ、四季折々の自然を慈しむ気持ち、 両親や家族への思いも末期の目から見る悲壮感がただよっている。 読んでいて厭きることのないれっきとした日記文学になっているのだ。

そのジャーマンがパンチ&ジュディーを好きらしい。不思議でも意外でもない。 そうだろな、という感じだ。 だがそれにしてもパンチ&ジュディー上演用の舞台道具を見に行って、撮影 に使うというのはかなりだ。 この前衛映像作家の末期の目はどのようにパンチ&ジュディーを見つめたのだろ うか。

鶴見俊輔によると、パンチは「悪人はけっして仕合せになることができないとい う、ひろく知られている格言に反して」「幸福な悪人で」「マクベ ス夫人でさえ、自分のおかした罪を思って悩んだのに、パンチはいつもさわやかである。 そういう人間がいるという冗談を何としてでもおたがいの間に保ちたいという願 いが、イギリス人の間にはあった。」 「パンチの活躍は、この世に不正があるという、イギリス人の現実認識を保つの に力をかした」ということである (『限界芸術論』「太夫才蔵伝」第十四章パンチとジュディー)。

国民性論議はさておき、ジャーマンにとっての闘病生活とは治療の術のない病エ イズと共生していくことであった。 エイズと名付けられた未知の病、不治の病は二十世紀末現在における「この世の 不正」である。 折りにふれパンチ&ジュディーを思うジャーマンに、いまだ懲らしめられぬ 悪を自己の生に共存させる身振りを見てしまうのは、考えすぎだろうか。

というようなことをつらつら思っていたら、1994年2月20日ジャーマン死亡の訃報が届いた。 もう彼の目が見たものを我々が見ることもない。合掌。

(文学部英文学科助教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Mon Nov 9, 1998

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