"As Pleased As Punch"

― 直喩の中のパンチ ―


岩田託子



"As Pleased As Punch" という直喩は慣用的に「大満足」と訳すようだ。 英国伝統の人形劇パンチ&ジュディーが残念ながら知名度を得ていない我が国では 「パンチのように大満足」と訳すとかえってわからなくなるからだろうか。

人形劇のパンチは自分の赤ん坊を放り出し、妻を殴り殺し、官憲や医者をぶちのめし、 絞首刑執行吏を逆に絞首縄にかけ、あげくの果てには悪魔までやっつけてしまい、「大満足」で舞台せましとはしゃぎまわる。 "As Pleased As Punch" と耳にして、「パンチのように大満足」と文字どうりイメージしてしまい、ぎょっとすることがあった。 映画『ハワーズ・エンド』を観ていた時のことだ。

ウィルコックス家の長男がその妻に「私と結婚して子供も生まれる。この生活をどう思うか」とつめよられる場面で、 "As Pleased As Punch" と答えた時である。字幕には「大満足さ」とあるだけで、日本語を追うかぎりでは、パンチの姿は微塵もない。 だが目下最大の関心事がパンチ&ジュディーという私には、いったん喚起されたパンチが取りついてしまった。もう映画どころではない。

あわててE・M・フォースターの原作をあたってもそこにはパンチはいなかった。 25章のこの場面では、弟や妹が結婚して、係累が増えれば財産の分け前は減る、父に後妻がくればもっと減るなどと件の跡取り息子が一人胸算用する。 これは映像にできないと、映画では妻に難詰させるダイアローグに換えたというところだろう。 「映画」という「ジャンルの要請」で、しかも比喩の中に出現したパンチに私は翻弄されたわけである。

ついでながらフォースターはこの小説の他の箇所にはパンチ&ジュディーを登場させている。 ウィルコックス氏と姉マーガレットの婚約に不満をいだくヘレンについて次のように描写している。 「この頃ヘレンは意識下にある自己なるものに拘泥していた。 人生のパンチ&ジュディー的側面にばかり気をとられ、人間を操り人形、 目に見えない人形遣いが恋愛や闘争にひきずりこむ操り人形だと語っていた」(23章、下線筆者)。 人生の「パンチ&ジュディー的側面」とはずばり「セックス&ヴァイオレンス」であり、これをフォースターは多少お上品に「恋愛や闘争」と書いているにすぎない。 人間生活のこのような部分までもが、「目に見えない人形遣い」に操られていると考えてしまうところに、 ヘレンに代表される二十世紀初頭の西洋知識人の病が感じられる。 ちなみに吉田健一訳では下線部は「操り人形的」となっているが、パンチが消えたのを惜しむのは筆者だけであろうか。

ところで今、私は"As Pleased As Punch" なるヴィデオが英国から届くのを心待ちにしている。 パンチ&ジュディーゆかりの地ロンドンはコヴェント・ガーデンでパンチの325回目の誕生日パーティーが87年の5月に催された。 これは未曾有の出来事ゆえ、後にギネス・ブックにも記載された。全土からパンチ&ジュディーが集まり、 また世界各地からパンチの従兄弟たちもやってきて、それぞれの上演をくりひろげた。 当時英国滞在中の私もお祝いにはせ参じ、パレードに参加したり、楽しい一日を過ごさせてもらった。 当日の模様はテレビ・ドキュメンタリーになると小耳にはさんでいたが、見ずに帰国してしまったのがつくづく心残りであった。ところが、親しく文通しはじめたパンチ・マンの生業がテレビ・プロデューサーで、 他ならぬ彼がこの番組を制作したと最近判明したのだ。

さて、彼から送られるヴィデオを手にしたときの私はきっと"As Pleased As Punch" だろうことは間違いない。

(文学部英文学科助教授)


The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Thu Apr 30, 1998

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