Catwings シリーズにおけるサバイバルする子どもたち


織田  まゆみ

T

 1929年生まれのUrsula K. LeGuin だが、70歳を越えても創作意欲は衰えていないようだ。2000年に出版されたSF作品が対象になる ローカス賞では、長編部門でThe Telling が、ノヴェレット部門で "The Birthday of the World" がそれぞれ賞を獲得したし、 2001年には、春にEarthseaシリーズ外伝ともいうべき Tales from Earthsea が、そして秋には、Earthsea シリーズの5作目である The Other Wind が出版された。The Telling は、The Left Hand of Darkness(1969)やThe Word for World is Forest (1972)などの ハイニッシュ・ユニバースものに入るが、この連作での長編発表はThe Dispossessed(1974)以来である。またThe Other Wind は、 前作Tehanu(1990)から11年ぶり、それもEarthseaシリーズ最後の書と但し書きをつけてTehanu を発表したにもかかわらずそれを覆し ての続編である。"Now moves"と、ルグィンは弁解じみたことを述べている(Tales from Earthsea 序文)が、読者にとっては喜びであろう。

 ところで、ルグィンの守備範囲の広さは定評のあるところだが、Attebery は彼女の短編集The Wind's Twelve Quarters (1975)を 例にあげつつ "There is fairy tale, allegory, science fantasy, hard or "wiring-diagram" science fiction..., a surrealistic mode that LeGuin refers to as "psychomyth", and essentially naturalistic narrative that takes place on another planet..."(162) と分類している。この多様さは、彼女の子ども向きの読み物、絵本にもあてはまる。Reid があげたルグィンの子ども向き作品12とCatwingsシリーズ4作目のJane on Her Own(1999)を加えた13作品のうち(1)、10作品に目を通すことができたが、まさに多彩な内容だった。

 Solomon Leviathan's Nine Hundred Thirty-First Trip Around the World (1976) は、キリンと大蛇の男女の哲学者が地平線を求めて 船旅をする話、Leese Webster (1979) はクモの話だが、E.B.White の Charlotte's Web (1952) のクモのシャーロットと比べると 主人公リーズの芸術家としての自己探求が印象的だ。彼女はすばらしい作品を編み出したがゆえに、屋敷から外に追い出されるが、 そうされたことで逆に芸術と生活どちらにも最適な環境を得た。A Visit from Dr. Kats (1988) は、病気になってベットに入っていなくては ならない女の子に2匹の猫が訪ねてくる生活スケッチ風の話であり、Fire and Stone (1989) は、村を襲ってくるドラゴンが実は 岩を欲しがっているのではと考えた子どもたちが、岩を食べさせると、ドラゴンは丘になるという話である。また、A Ride of the Red Mare's Back (1992) は、 トロルに連れて行かれた弟を、木彫りの赤い雌馬とともに助けだす少女の冒険を、北欧の雰囲気の中で語る。さらに、Fish Soup (1992) は、モハに住む 「考える男」とモホに住む「書く女」がそれぞれ子どもを欲しがるが、一方は子どもに多くを要求しすぎて子どもが大きくなりすぎ、 もう一方はあまりにも要求がないので、子どもが縮んでしまう話で、親と子どもの関係についての寓話となっている。

 だが、これらの本は絵本の体裁になっているものの、Nodelman が、絵とテクストの相互関係に着目して "good picture books as a whole are richer experience than just the simple sum of their parts."(199) と主張する段階には、 程度の差はあれ、到底及ばない。というのは、テクストが強すぎ、それだけで完結しがちなので、絵は独自性を発揮できないのである。

 Catwingsシリーズの4さつは、Flowers によれば6歳から8歳向けということだが(206)、本の形は小ぶりで、絵本というより、 挿絵が多い幼年向き読み物の体裁である。シリーズ1作目の Catwings (1988) では、都会のスラムに住むシングル・マザーであるMrs. Jane Tabby(ジェーン・タビー夫人)に、翼のある4匹の子猫Thelma(セルマ) James (ジェームズ) Roger(ロジャー) Harriet(ハリエット)が生まれるが、 子どもたちが都会を出て安全な場所を見いだすまでを、次作 Catwings Return (1989) (以下、Return と表記)では、お母さんに会いに 都会にでかけたハリエットとジェームズが、破壊される予定のビルの中から迷子の異父妹、翼のある黒い子猫のジェーンを助け出し、 きょうだいのもとへ連れ帰るまでを描く。また、第3作 Wonderful Alexander and the Catwings (1994) (以下、Alexanderと表記)は、 翼のない雄の子猫、アレキサンダーの冒険を、最新作 Jane on Her Own(1999)(以下、Janeと表記)では、都会に戻ったジェーンの 冒険を描いている。これら4作に共通なのは、子どものサバイバルへの問いかけであり、彼らの危機と解決の問題であろう。

 しかしその前に、翼のはえた子猫という生き物について考えてみたい。普通の猫から変わった子猫が生まれる点に関して Dragonwagon は、 E.B.White の Stuart Little (1945) のスチュアートが、身体的なねずみ性というべきものと人間的な知性や感情が結合されたものとして 示されることと同じ(40)と見ている。しかしそればかりではなく、翼のはえた子猫は、子ども・女・少数民族というエイリアン性、 他者性を象徴しているのではないだろうか。

 まず、動物と女はつながりをもってとらえられる。Gruenは、"The categories "woman" and "animal" serve the same symbolic function in patriarchal society."(61) と主張している。動物と女は「自然的な」結びつきがあるのではなく、 抑圧の手段として家父長制社会によって構築された結びつきがあるというのだ。つまり一方は働き手として、もう一方は子どもの養育者として、 ともに男社会の中で従属的な位置におかれている。さらに動物の中でも、猫は、魔女と結び付けられることが多い。加えて家の中にいて、 優美な体つきをしていること、しかも何を考えているかわからない風情があり、時には鋭い爪でひっかくといった特徴は、女性的なイメージであろう。 幼児向き雑誌の安易なお話にみられるような犬は男の子、猫は女の子といった登場人物の振り分けはこのような社会的慣行の忠実な踏襲だろう。だが、 猫が主人公の児童文学はあるものの(2)、一種の敵役が多いのではないだろうか。たとえば、Stuart LittleThe Tale of Peter Rabbit (1902) などの小動物が主人公の物語ではもちろんのこと、Hugh Lofting の Doctor Dolittle シリーズ(1920-48)でも猫は何を考えているかわからないという 理由で嫌われている。つまり猫は仲間ではないのである。

 女に関して上記に論じたことはそのまま、子どもや少数民族に関してもあてはまる。子どもが動物に近いとされるのはもちろん、 子どもも少数民族も「わたしたち」からは排除される。つまり、女・子ども・少数民族には、社会の「主流な」価値基準に従え、 という命令がなされるが、しかし従ったからといっていつまでも差異は消えない、というダブルバインドな状況におかれるのである。 「主流な」価値基準とは、男の、大人の、多数のそれである。したがって女は、一方で男性的思考・感覚を身に付けつつ、女としての分をわきまえ、 子どもは社会化されつつ、子どもとしての分をわきまえ、少数民族は、多数に同化されつつ、その民族としての分をわきまえることになる。 いくら「主流」に寄り添い、忠実な臣下を志そうとも、例外という形でなければ、決して主流のなかには入れてはもらえない。つまり二流の市民なのである。

 したがって翼のある子猫は、人間に対する動物、男に対する女、大人に対する子ども、多数に対する少数のそれぞれ後者がいわば渾然となって、 家父長社会の中での他者、エイリアンを象徴していると考えられる。以下、この前提にたって、旅が中心の1、2作と、男の子、 女の子の危機と成長を描く3、4作をわけて分析し、他者性・エイリアン性の体現者たる翼をもった子猫のサバイバルを考えたい。

U

 4きょうだいといえば、Luisa Alcott の Little Women(1868) の4姉妹、 Arthur Ransome、Swallows and Amazon(1930) のウォーカーきょうだい、 C. S. Lewisの Narnia 年代記(1950〜56)の4きょうだいなどが思い出される。いずれも個性的な子どもたちだが、その個性と年齢は関連がある。 しかし、Catwings の4きょうだいは年の順番が明らかにされない。もちろんそれはこれらの子猫たちがほぼ同じ時に生まれたからだと考えられるが、 むしろ作者はそれを利用して、きょうだい間の関係を、Lorieの言う、"subversive" つまり転覆させたのではないかとおもわれる。 したがって、兄や姉は年下のきょうだいの世話をする義務をもつとか、妹・弟は年上のきょうだいに甘えつつ、従うといった関係から、 この子猫4きょうだいは解放されているのである。

 もうひとつ子猫たちにないものは父猫、あるいは父的存在である。まず、4きょうだいの父猫について、隣人は、"their father was a fly-fly-night."(Catwings 3) と評し、軽薄で無責任な人物像が暗示されているが、物語にはでてこない。また、異父妹ジェーンの父も、 ジェーンが人間たちに追われてパニックになり、壊される予定のビルの高い窓の中に飛んで入ってしまった時、ちょうど留守をしていた。つまり彼は、 子猫の危機にも、子猫と引き離された上、人間たちに追いまわされた母猫の危機にも、全く役に立たなかったのである。これらの父の不在は 子どもたちの言動にも表される。ロジャーもセルマも、"sounding (even more ) like their mother." (Catwings 29,30) と 母を真似ているが、父親への言及はまったくない。さらに子猫たちを救い、味方になった者たちは、農場の子どもである8歳のSusan(スーザン)と11歳の Hank(ハンク)、逃げ惑う母猫を助けてくれた老婦人Sarah Wolf(サラ・ウルフ)である。したがって近代家族イデオロギーでの、 一家を守り導く父親像などどこにもないのである。加えて作者は、ジェイムズの翼を負傷させた。つまり、「元気で勇敢な」男の子像、 小さな父親となるかもしれない彼の可能性を排除してしまったのだ。その結果、翼のある子猫たちは、自分たちの力、子どもの力しか 持っていないことになる。父親は、幻想の中でも現れない。あるのは彼らの力だけなのである。

 だが、母と別れざるを得なかった子猫たちは一方で、自分たちはだれかの援助なしには生きていけないことも知っている。4きょうだいは、 都市スラムでのいわば迫害を逃れて、まず野生の掟の支配する森で生活した。当初はうまくいくように思えたが、フクロウが攻撃を加えるようになって、 森も都市と同様、危険なところとなる。アライグマの喧嘩の声を聞きながら、スラムの思い出が語られ、母猫のことばが確認される。

"Mother always said," Thelma remarked, thoughtfully, "that if you found the right kind of Hands, you'd never have to hunt again. But if you found the wrong kind, it would be worse than dogs, she said." (Catwings 29)

きょうだいたちは、「靴」と「手」についての経験と希望を話す。これまで「靴」にも「手」にも、蹴散らされたり、強く握られて「翼だ」と 大声をあげられたなど悪い思い出しかなかったが、それでも「いい手」に会いたい、その世話を受けたいと思うのである。子どもは、 親や環境を選んで生まれることはできない。いわば暴力的にこの世に産み落とされる。しかも、ある程度の年齢になるまで、親や親的存在に 依存しなければ生きることもできないのである。したがって、子猫たちの「いい手」願望は、楽していい生活をしたいというより、 子どもとしてのまっとうな要求が込められているように思われる。それは甘えではない。当然で必然的な権利なのである。

 子どもが世話をしてもらえなくなったらどうなるかは、Return のジェーンが表している。ジェーンは人間たちに追いかけられ、 発作的に飛んで無人のビルに隠れた。しかし、母猫はそこに行くことができなかった。ジェーンは信頼のできる者と切り離され、 しかもそこでドブネズミたちにねらわれた生活をしたことが、Alexander で明らかにされる。そのせいで、彼女は、ハリエットとジェームズに 助けられてからも、ことばを発することができなかった。"Me"と"Hate, Hate, Hate" を除いて。ジェーンのこの症状は、 外傷後ストレス障害といっていいだろう。恐怖と孤立無援感に長い間さらされた者は、何度もフラッシュバックにおそわれ、ささいなことに 驚愕する過剰反応をおこしたり、マヒしているような無感覚状態に陥るのである。ジェーンが、一人ぼっちの黒い子猫であることは、 少数民族の子どもに対する劣悪な養育環境を暗示しているようにも思える。もし、彼女が誰かに救助、保護してもらえず、それでも偶然 生き残れたとしたら、彼女の心中は、一方で世の中に対する恐怖や恨み、もう一方で自己無力感、自己否定でいっぱいになるのではないだろうか。 愛されて世話を受ける環境の中で育ってはじめて、子どもは自己に自信を持ち、周囲に対処していけるのである。したがって、子どもに対しての 身体的・心理的・性的虐待や養育放棄は、一過性の問題ではない。当事者にとって長期にわたる根深い問題だけではなく、そのような育児環境を 改善できなかった社会にとっても大きな付けとなって返ってくるのではなかろうか。

 さて、ジェーンのような心に大きな傷を負った子どもにどう向きあうのかという問いかけについても Return は答えているように思われる。 まず、ハリエットとジェイムズが、"Hate, Hate, Hate"と叫ぶ、怯えているジェーンに対してしたことは、事を急がず、 待つことだった。彼らは、隠れているジェーンに聞こえるように、自分たちの経験談や、お母さんの思い出を語り、子猫がひとりぼっちではないことを 伝えようとした。そして子猫が緊張をとくように、母猫と同じように喉を鳴らした。さらにジェーンが気を許してやってきた後も、彼女に性急に 質問することはせず、ひたすら彼女を包んでやる。

All that night and next day and night they stayed with the kitten. They curled up with it in its carton, and talked, and purred, and washed, and slept. (Return 27)

ここには、傷ついた子どもに対し、孤独ではないことを告げ、彼女をまるごと受容して寄り添っている姿がある。このコミュニケーションの とりかた、つまり一方が他方を従えるのではなく、慎重に相手を観察して歩み寄り、その上で仲良くなるというやり方はCatwings シリーズに 特徴的なものだ。子猫4きょうだいとスーザンやハンクの出会い、ジェーンとアレキサンダーの出会い、そしてジェーンとサラ・ウルフの出会いが そうである。一見まどろっこしいが、大変平和的な出会いの方法をいくつもあげることで、作者は支配―従属といった力の強弱による関係の見直しを おこなっているのである。

 したがって、シリーズ1、2作目で主に語られる子どものサバイバルとは、他者性・エイリアン性を体現している者たちが、誰かに従属することなく、 そして誰かを支配することのないやり方で、自らが育つのに良い環境を手に入れることである。そのために作品は、支配―従属になりやすい 要素である年齢や父親的存在を排除して、傷ついた子どもへの対応に代表されるような、相手に脅威を与えないコミュニケーションを提唱している。

 
V

 3、4作は、それぞれ男の子、女の子に焦点をあて、ゲットーを抜け出した彼らにふりかかる危機とその克服を描く。しかもその過程で、 各々の作品は、男の子らしさのステレオタイプ、「女の子のしあわせ」のステレオタイプを覆し、借り物ではない、押し付けではない「個性」の 追求を称えている。

 3作目の Alexander は、翼をもっていないアレキサンダーの視点から語られる。Furby家のアレキサンダーは、いわば上流階級の出身と 考えていいだろう。彼と父母、妹たちは、羽根布団やら猫用のドアまである田舎の立派な家に住んでいた。飼い主は、週末に来るだけで、 通常は管理人が世話をしてくれる。アレキサンダーは、"the oldest kitten, the biggest, the strongest, and the loudest."(1) と 描写され元気な様子がわかるが、妹たちはいつも威張りたがる彼にいささかうんざりしている。アレキサンダーは年齢が上である、男の子である、 そして生活ぶりがいい出自、そのどれをとっても、翼のある猫と対称的に描かれている。そして、父も母も飼い主も管理人も、彼を甘やかす。 しっぽつかみ遊びで妹たちを組み敷いた時も、彼は「手加減をしなさい」とは言われずに、称賛される。

Mr. and Mrs. Furby and the Caretaker and the Owner looked on and laughed and said, "Alexander's all boy! Nothing frightens Alexander!" When a little old poodle came to visit, and Alexander walked right up to it and scratched its nose, they laughed and admired him more than ever. "He's not even afraid of dogs! Alexander is wonderful!" (Alexander 2)

実際にはアレキサンダーが称賛される理由などまったくない。彼が勝ったのは、妹たちであり小さな年老いた犬である。より弱いものを力で 支配しただけのことである。だがこのような行いを「男の子らしい」と称賛されることで、子どもは確実に「男の子らしさ」と力を振るうことが 同じようなことであり、しかもそれはすばらしいことだと刷り込まれる。全く幻想なのだが、それに気づくことなく、大人になり人生を 送っていくこともあるのだ。大人であり、男であり、多数派に属し社会の「主流」にいると、その位置にいることが自明視され、 自分の存在を他の視点で問い直すことなく、人生の主人公でいられるからである。しかしアレキサンダーは、自分のすばらしさを見直す 機会を得る。その機会とは、「すばらしいアレキサンダーが、すばらしいことをする」試み、つまり世界を探検することだった。この冒険のなかで、 アレキサンダーは自分を再構築しなくてはならなくなる。

 「世界」が庭で終わらず、牧場まで続いていることを知ったところまではよかった。彼は自信まんまんで、牛の鳴き方まで文句をつけた。 しかし、国道を走る怪物のようなトラックからなんとか森に逃げ、犬たちに追いかけられた時から彼の自信は吹っ飛ぶ。思わず体が動いて木に 登ったものの、降りることができなくて夜を明かすことになるのだ。寒さと恐怖、父も母も管理人も助けには来てくれない心細さ、迷子に なってしまったという失望感、そして空腹。彼ははじめて自分がちっぽけな存在であることを知る。そんな彼を助けてくれたのは、ジェーンだった。 この時ジェーンはまだ口がきけなかったが、アレキサンダーがしがみついている木の枝にとまり、耳をなめることでまず彼の恐怖を取り除いてやる。 その上で、木を降りていくように彼を促すのだが、"One branch at a time, step by step and paw by paw, she led him down and down the tree, always showing him the way and waiting for him."(17) というやり方をもちいる。アレキサンダーの恐怖を笑いもせず、 しかししっかりその恐怖をわかってやって、少しずつお手本をみせながら、彼を導くのである。そして彼が迷子になったことがわかると、 翼を使わずに歩いて、アレキサンダーをきょうだいのところにつれていった。

 結局アレキサンダーは、スーザンとハンクの家で飼われることになった。彼はとても大事にはされたが、"he was expected to live outdoors during the day, and to catch mice when he grew up."(29) という扱いをうけることになった。これは、アレキサンダーの 父のような、いつもいつも寝てばかりいる生活とは違い、猫としてやるべきことを期待されている生活である。元の飼い主や父母とも再会し、 彼は幸せだった。しかしある日、彼は考え込む。すばらしいことをやろうとして家をでた自分は、結局迷子になっただけだった。ジェーンが 助けてくれたからこそ、自分は幸福になれたのだ。すばらしいことを成し遂げたのはジェーンなのだ、と。彼は自分の経験から、当初自分が 思い描いていた「すばらしさ」を見直している。ジェーンが彼にしてくれたことは、彼が妹やテリヤに対して行なった力の行使とは違い、 彼に寄り添い、彼を励まし、彼が力をだすのを助けることだったのだ。"What wonderful things could he possibly do for Jane?" (34) と思い始めた時、アレキサンダーは完璧に甘やかされた男の子から脱皮したのである。彼はジェーンに、母猫と離れ離れになったビルの 生活でおきたことを思い切って話すように促す。

"You showed me that I could get down from that pine tree," Alexander said. "I know you can get away from the bad thing. But I can't help if I don't know what it was. You have to tell me, Jane." (36)

ジェーンは、うなりアレキサンダーを噛みさえした。しかしアレキサンダーは逃げず、彼女を見守り励ます。そしてようやく、 ジェーンがねずみたちに怯えていたことを自分の口でしゃべることができた時、彼はジェーンをしっかりと抱きしめ、なめてやり彼女を励ます。 "You don't ever have to be afraid of them again. You have wings, Jane. You can fly anywhere."(40) とちょうど、ジェーンが 木から降りられなかったアレキサンダーを導いてくれたように、彼女に共感し、彼女を勇気づけるのである。ジェーンのきょうだいたちや 農場のスーザンやハンクによって保証されている安全な生活があったからではあるが、アレキサンダーの相手への思いやりが大きく作用して、 ジェーンは口にすることもできなかった故に、ずっと支配されていた恐怖と初めてむきあい、それを克服することができたのだ。

 以上、3作目の Alexanderでは、「すばらしい」とおだてられ甘やかされて育った男の子が、真に「すばらしい」行いをするまでの試行錯誤が 描かれたのに対し、4作目の Jane では、「自由でありたい、可能性を試したい」と夢見る女の子が陥る危機とその脱却が、ジェーンの視点で 描かれる。ここでの危機とは、与えられる豊かさや称賛が自分を変質させたり、そういう自分から目を逸らしてしまうという類の危機である。

 ジェーンは平和ではあるが、同じような毎日に退屈していた。自由に飛ぶ翼をもっているのに、どうして同じところにじっとしているのかという 彼女の問いかけに、きょうだいたちは、「人間にみつかったら、動物園か実験室の檻にいれられてしまう」と答える。ジェーンはきょうだいの 言うことが正しいのはわかっているのだが、それでも、"she wanted to see new places and find new friends."(6) と思わずにはいられない。 ついにある日彼女は翼を羽ばたかせて、冒険の旅に出発する。しかしなかなか友人はみつからない。そればかりか、猫には仲間だとも思ってもらえず、 こわがられ、人間は最初は悲鳴をあげ、次に彼女をつかまえようと追いまわすのだ。カラスの発言がきっかけになって、彼女は自分が生まれた 大都会にいってみることにする。空腹で疲れていた彼女は、思い切って大きく開いていたアパートの窓から中に入る。中には男がいて悲鳴をあげたが、 ジェーンを捕まえようとはしなかった。

He just stared at her, with eyes as round as fishes' eyes. ..."Oh you bee-yoo-tee-full A-MA-ZING whatever-you-are!" said the man. ... Then he hurried to the dish cupboard and the refrigerator, and poured a bowl full of milk, and pit it on the table." (14)

しかし彼は、ジェーンがミルクを飲んでいる間に、窓をそっと閉める。その窓は二度と開けられることはなかった。

 自分のことをPoppaと呼ばせるこの男は、ジェーンに危害は与えなかった。動物園や実験室の檻はなかった。それどころか、男は、やわらかい ベットやビロードのふちどりのあるかごを買ってくれ、とてもおいしい食べ物を与えてくれ、やさしく撫でて、そしてほめてくれるのである。 ジェーンは自分が幸せだと思った。やさしくしてくれる男が好きだと思っていた。このジェーンの状態は、Estesが、青ひげの妻に関して記述したことを 思い出させる。

Bluebeard continues his destructive plan by instructing his wife to compromise herself psychically; "Do whatever you like," he says. He prompts the woman to feel a false sense of freedom. He implies she is free to nourish herself and to revel in bucolic landscapes, at least within the confines of his territory. But in reality, she is not free, for she is constrained from registering the sinister knowledge about the predator, even though deep in the psyche she already truly comprehends the issue. (50-51)

ジェーンの青ひげは、ジェーンを殺しはしないが、彼女を金儲けの手段として利用しようとする。だから彼女を大事にするわけだ。しかし上記の 青ひげと同様、あくまで「彼の領地内」に閉じ込める。ジェーンが紫のリボンをつけられることも、彼女が窓からだしてもらえず、しかも 「危ないから」とお為ごかしを言われるのも、男の部屋が、動物園や実験室と同様な檻であることを示しているのである。

 当初は満足していたジェーンだったが、男がブリーフケースを持った男たちと交渉して彼女をテレビにだす企画が進むにつれ、疑問を感じるようになる。 まず、ジェーンはテレビ撮影のため、自分がやらされることにうんざりする。

She would have liked to show them how she could hunt, out in the open field, as fast as any falcon. But they help up silly hoops with paper on them and expected her to fly through them. She would have liked to fly around the city having adventures, but they wanted her to stay inside and to tricks. (19)

つまり彼女は、男と男たちの間に取り引きされる客体にすぎない位置にいつのまにか落とされてしまったのである。だれも彼女の意向を 聞こうとはしない。一見贅沢で大事にされている生活だったが、それは、ジェーン個人に対して提供されるものではなく、客体としての価値、 商品としての価値に対する生活だった。ジェーンは、真綿でしめつけられるような抑圧感を感じ始める。男に好意をもっていたから、 男のいうことに従ってきたが、徐々に体までおかしくなるくらいストレスがたまってきたのである。ついに彼女が逃亡を決心したのは、 男が「君は有名になるのだ」と言った時だった。彼女は農場にいるきょうだいまで捕らえられ、同じようなリボンをまかれ、くだらない演技を やらされるのはかなわないと思ったのである。ジェーンは男の虚をつき、翼を使わず足で逃亡する。ここで強調したいのは、もし、きょうだいの 心配がなかったら、彼女の逃亡の決心は、このようにすっきりとはいかなかったかもしれないということだ。ストレスは感じながらも、いつのまにか その生活に慣れ、抜け出すことができないという危険性は大変大きい。なまじ美しく贅沢な檻だと、檻であることがわかりにくい。自分を抑圧する者も、 優しく愛情深いとそれが抑圧者だとはわかりにくい。加えて、いつのまにか自分の心の内部にも、「真実を知りたくない」という願いに裏打ちされた、 自らを欺く傾向も生まれてしまうのである。愛情、優しさという衣がかかると、何が自分を抑圧しているのかの原因がわかりにくくなり、一方で 疑問を持ちながら、一方でそれをなだめながら徐々に生気を失って行く。この作品は女の子が陥りがちな幸福観を見直し、それが持つ罠を 暴露しているのである。

 さて、Jane で、ジェーンを閉じ込めた男と対比して書かれているのは、母猫を助けてくれたサラ・ウルフである。ジェーンは男から逃げると 母猫のもとに行き、「翼のある猫をみたら、人間は檻にいれようとするのよ」と訴える。しかし母は「そうじゃない人もいる」といって サラを指さすのである。サラは朝目覚めると、知らない猫をみてびっくりするが、ジェーンを撫でながら、次のように言う。

"And I expect it might be wise not to tell people about you. They'd just say, 'Oh, Sarah is so old, she's gone silly. ... It's difficult being different, isn't it?" (38)

サラのことばから彼女の人生が見えるようだ。具体的なことはいっさいふれられないが、他人と違うことをしてきた人、 つまり世の中の主流を歩んでこなかった人でなければ、このようなセリフはいえないだろう。サラはその姓が狼を意味するので、 動物・女・老人を内包していると考えられるが、自分も周縁にいるからこそ、翼のある猫の他者性・エイリアン性を一目で理解したのである。 だから怖がりもせず、利用しようと考えもせず、仲間として受け入れるのだ。ジェーンと母猫が心配そうに見守る中、サラは窓のところに行き、 "I expect that's how you'd like it" (39) と言いながら窓を開け、"You certainly don't need that to be beautiful" (40) と言って、ジェーンがいくら試みてもはずすことのできなかった首のリボンをはずしてやった。これらのさりげない行為は、 ジェーンがなによりも自由である、行為の主体者であることを求めていることを、サラが実感として知っていることの証拠であろう。 Jane では男とサラを対比させながら、愛情という名で行なわれる所有を否定し、互いに行為主体者でありつつも相互に交流する関係の希求を語っている。 その結果、ジェーンは"Me, me, I am free!"(41) と歌いながら都会の空を飛びまわれるのである。


W

 さてこれまで、翼をもった子猫のサバイバルを、良い環境を求める旅とコミュニケーション、男の子と女の子の危機と解決の 側面から考察してきた。最後に4作品を通底している基本旋律とでもいうべきものを考えてみたい。

 それはまず、多文化の肯定であろう。つまり、周縁に追いやられていた者たち、子ども、女、少数民族、老人の復権である。 翼をもった猫という他者性・エイリアン性を体現した者たちが、子どもや老婦人の援助をうけつつサバイバルする、という物語構造全体で、 世の中の「主流」文化を転覆させているのだ。

 次は、選択の尊重である。作品は、おまえの安全のためだといって、窓をしめた男を否定し、友人として接しようとする農場の 子どもたちやサラ・ウルフを肯定する。つまり、相手を客体としての位置には落とさず、自分で意思決定ができる位置関係を互いに 尊重する関係である。

 そして、前述したように、力を行使しない、歩み寄りというべきコミュニケーションのやり方もシリーズの基調をなす。 このような接し方で、虐待された子猫は救われ、心を開き、また、猫たちと農場の子どもたちやサラは、友人関係がつくれたのである。

 以上の3つは、換言すれば、ルグィンのフェミニズム理解といってもいいのではないだろうか。そしてこれらに加えて、 迫害をうけた子猫のきょうだいが住む農場は、男性のいない、女性だけのユートピアのイメージだ。また、虐待された子猫ジェーンが 黒猫であるのは、白人女性中心のフェミニズム批判を反映していると思われる。つまり、女性とは単一概念ではなく、 ジェンダー・人種・民族・階級が絡み合ったものなのだという考え方である。さらに、男の子らしさや女の子の幸福観の再考という、 異なる視点から既成の概念を見直す試みもフェミニズムの手法のひとつだ。

 しかしフェミニズムとの関係において、このシリーズで特に注目すべきは、Bolen の言う、"crone archetype" を表象していると思われるサラ・ウルフの造形である。このクローン、つまりおばあさんの元型は、若い娘の価値が高い家父長社会の なかでは軽くみられがちであるものの、娘・母の時代の後の、"Going to seed" (202) という、花時が過ぎて実ができる 人生の第3期の女神なのである。サラは、ルグィンが"The Space Crone" で論じたおばあさんの仲間でもあるだろう。 アルファ星の宇宙船からの招待にふさわしい地球人の代表者は、田舎に住んで、市場の販売員をやっている60歳をすぎたおばあさんだと ルグィンは言う。有能な若い男性飛行士でもなく、キッシンジャー博士でもなくどうして彼女がふさわしいのかといえば、"only a person who has experienced, accepted, and acted the entire human condition - the essential quality of which is Change - can fairly represent humanity. (6) であるからだ。60年代からの第2波フェミニズムの洗礼を真っ先にうけた人々も、 今や娘、母の時代を過ぎてクローンになりつつある。サラは老境に入った作者自身の分身でもあろう。サラを含めてクローンたちは、 娘や孫の世代をさりげなく援助し、自分たちのフェミニズムに対する模索とその成果である果実(3)を次世代にも引き継いでもらいたいのである。 それは作者自身の願いではないだろうか。Catwings シリーズは、未来を担う子どもたちに向けた、クローン・ルグィンの知恵の伝達書なのである。


(1)  現在簡単に手に入るのは、Catwingsシリーズの4さつとA Ride of the Red Mare's Back だけである。
(2)   ペローの『長靴をはいた猫』をはじめ、Kathleen Haleの Orlando the Marmalade Cat シリーズ、Meindert DeJongの The Last Little Cat、佐野洋子『百万回生きたネコ』などがある。
(3)   Catwings シリーズがまだ続くのであれば、女性に脅威を与えない男性像の提起が求められるであろ う。


引用文献

Attebery, Brian. The Fantasy Tradition in American Literature. Bloomington: Indiana University, 1980.
Bolen, Jean Shinoda. Goddesses in Older Women. New York: HarperCollins, 2001.
Dragonwings, Crescent. "Upward Mobility in the Kittey Ghetto." New York Times Book Review 13 Nov. 1988: 40.
Estes, Clarissa Pinkola. Women Who Run With the Wolves. 1992. New York: Ballantine Books, 1997.
Flowers, Ann. Rev. of  Catwings Return. Horn Book March 1989: 206
Gruen, Lori."Dismantling Oppression: An analysis of the Connection Between Women and Animals."
  Ecofeminism
. Ed. Greta Gaard. Philadelphia: Temple University, 1993.
LeGuin, Ursuka K.. Leese Webster. New York: Atheneum, 1979.
..., Solomon Leviathan's Ninety-first Trip Around the World. New York: Philomel Books, 1983.
..., A Visit from Dr. Kats. New York: Atheneum, 1988.
..., Fire and Stone. New York: Atheneum, 1989.
..., "The Space Crone." Dancing at the Edge of the World. 1989. New York: Harper & Row, 1990.
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The Chukyo University Society of English Languageand Literature
Last Updated: Friday, june 7, 2002

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