変容する男性主体―The Professor's House におけるホモソーシャルな関係を中心に


木下 恭子

 従来、ウィラ・キャザー (Willa Cather) の『教授の家』 (The Professor's House, 1925)(1) は主人公セント・ピーター教授 (Professor St. Peter) が人生の晩年を迎えて、苦悩の日々を過ごし自殺未遂まで起こしたが精神的に再生する物語として読まれてきた。これについて、そのように解釈できると John P. Anders は明示している。

But The Professor's House is as much about spiritual recovery as it is about spiritual loss, Platonic friendship engenders such renewal, and through male friendship St. Peter discovers a sense of self in accord with his "inclination," "instinctive conviction" (269), and "attitude of mind" (282). (Anders 113-114)
(しかし、『教授の家』は精神的喪失と同じぐらい精神的再生をもたらし、プラトニックな友情がそのような回復力を生み出した。そして、男の友情をつうじてセント・ピーターは彼の「気持ち」、「本格的な信念」、「心構え」と一致した自分自身の感覚を発見する。)
そのため、教授とトム(Tom)の関係に焦点をあてて作品解釈することがなかったと言えるだろう。教授とトムを考察すると、二人は「ホモソーシャル」(2) な関係にあると読み取ることができる。Eve Kosofsky Sedgwick は次のような定義を示している。
"'Homosocial' is a word occasionally used in history and the social sciences, where it describes social bonds between persons of the same sex; it is a neologism, obviously formed by analogy with 'homosexual,' and just as obviously meant to be distinguished from 'homosexual.' In fact, it is applied to such activities as'male bonding,' which may, as in our society, be characterized by intense homophobia, fear and hatred of homosexuality."(Sedgwick 1)
(「ホモソーシャル」という用語は、時折歴史学や社会科学の領域で使われ、同性間の社会的絆を表す。またこの用語は、明らかに「ホモセクシャル」との類似を、しかし「ホモセクシャル」との区別をも意図して造られた新語である。実際この語は、「男同士の絆」を結ぶ行為を指すのに使用されているが、その行為の特徴は、私たちの社会と同じく強烈なホモフォビア、つまり同性愛に対する恐怖と嫌悪と言えるかもしれない。)
ホモソーシャルな関係とは男性同士の緊密な絆で、女性嫌悪やホモフォビア(同性愛嫌悪)が伴う。従って、教授がトムと交流を深めることで、当然のこととして教授と妻、教授と娘たちの関係に変化が引き起こされる。つまり、ホモソーシャルな関係によって、強制的に異性を愛すること、ホモフォビア、そして女性の家事労働に頼ることが前提として成り立っている家父長制が揺らいでいくのである。

 本論では、教授がトムに魅了される要因をフロイトの精神分析におけるフェティシズムにあてはめて考察する。そして、教授のヘテロソーシャル社会の頂点に位置する父権的主体の変容原因を、ホモソーシャルなトムとの関係がもたらした教授と家族の絆が崩壊する過程を分析することで説明できることを論証する。

T

 セント・ピーター教授は、初めてトムに出会った時どの様な所に魅力を感じたのだろうか。トムの印象を教授がまず外見から捉えていると、John P. Anders は指摘している。

Upon first meeting Tom Outland, St. Peter responds to the younger man's physical appearance. Collecting impressions such as Tom's "manly, mature voice" and his suntanned face and fair forehead,... (Anders 99)
(トム・アウトランドに初めて会ったとき、セント・ピーターは青年の外見に反応する。トムの「男らしく、成熟した声」や彼の日に焼けた顔や白い額などが印象的で....)

 このように教授は、他者の身体的特徴に関心が高く、初対面のトムの身体的な面を詳細に審美する能力の持ち主だ。そして、教授が他者の身体に「執着」する性質は、「フェティシズム」的性向として作品の中で必然的に表面化していることを見逃すことができない。Sigmund Freud によれば、「フェティシズム」とは本来の欲望を代弁する身体の部分を崇拝して、性的リビドーの対象がずれたものを意味する。(3) これについて E.L.McCallum は Freud のこの視点は、フェティシズムを異性中心に定義したものではなく、同性の間でも適用できる現象として解釈できると主張している。

Through Freud's work we come to understand sexual difference not just as the binary gender difference of masculine and feminine, but also as the differences apparently within one gender, between straight and queer, perverse and normal, chaste and promiscuous. Freud's texts do tend to undermine the rigid boundaries delineating these differences-most famously, they deconstruct the separation between normal and perverse and thus make it possible to perceive homosexuality as neither criminal nor pathological. (McCallum 2-3)
(フロイトの著作によって、私たちは性別を男性と女性という二つの性の違いだけでなく、一つのジェンダーでの明らかな違い、つまり、同性愛者でない人と同性愛者、異端な人と正常な人、純潔な人と乱交者もまたその中に入ることを理解する。)
この点で、The Professor's House で教授がトムに惹かれる理由について、教授のフェティシズム的志向が影響していると見ることが可能である。特に教授のフェティシズムの対象は、「手」や「声」に集中している。そして、その中で教授の審美観が際だっているのは、「手」だと言える。なぜ、「手」にそれほどまでに執着するのだろうか。庭の手入れにいそしみ、大工仕事もこなし、時には料理まで作ることができる教授の手先が器用なことは明らかである。従って、手でものを触れる感触に教授が敏感であることを、象徴的に示すエピソードがある。
Though this figure looked so ample and billowy (as if you might lay your head upon its deepbreathing softness and rest safe forever), if you touched it you suffered a severe shock, no matter how many times you had touched it before. It presented the most unsympathetic surface imaginable. It presented the most times you had touched it before. It presented the most unsympathetic surface imaginable. Its hardness was not that of wood, which responds to concussion with living vibration and is stimulating to the hand, nor that of felt, which drinks something from the fingers. It was a dead, opaque, lumpy solidity, like chunks of putty, or tightly packed sawdust-very disappointing to the tactile sense, yet somehow always fooling you again. For no matter how often you had bumped up against that torso, you could never believe that contact with it would be as bad as it was. (9)
(この人形は、(深く息を吸い込んで軟らかく膨れているところに頭をもたせると、いつまでも安らかに休んでいられそうなほど)いとも豊かで波打っているように見えたけれども、もしそれに触ろうものなら、たとえそれまでに何度触ったことがあっても、ひどいショックを受けるのであった。それはこよなく非情な外面を呈していた。その堅さは、生き物のように震動して衝撃に反応し、手に刺激を与える木の堅さでも、指から何かを吸い取るフェルトのそれでもなかった。それはパテの塊のような、あるいはぎっしり詰まったおが屑のような、生気のない、不透明な、こぶこぶした堅さで、触りばえがしないのに、それでいてどうしたことか、又してもつられて触るのがいつものことだった。それと言うのも、何度もその胸像にぶつかっていたにしても、それに触れると例のごとく不快な感じがするだろうとは決して思えなかったからである。)
この場面で、教授はマネキンにやわらかい触感を期待して触れたのに、意外なことにその外面は堅く驚いている。しかしながら、表面的に柔軟に見えるマネキンが実際は堅いという差異が、教授の触覚を刺激して彼はマネキンに何度も触れようとする。そのため、他者の身体に触れることが可能で、その人の自己表現を示す身体部位でもある「手」が教授にとって最も魅力的に映るのは当然だ。The Professor's House で教授のこのフェティシズム的志向が顕著に表れたところで、この作品において教授が他者に対して身体的関心をいかに高く持っているか見てみよう。教授は、"'Nice hands,' he murmured, looking critically at them as he took it, 'always such nice hands.'"(36)(彼女は彼のコーヒー茶碗を満たしてテーブル越しに手渡した。「きれいな手だね」と、彼は、それを受け取りながら批評的は目つきでそれを見て、呟いた。「いつもとてもきれいな手だね」)と妻リリアン (Lillian) の顔でも服装でもなく、手を見て繰り返し称賛する様子は潜在的に「手」からの執着から逃れられない教授の性質を物語っている。かつて情熱的な恋に落ちて結婚した教授とリリアンだったが、その教授の主体性を変容させ、夫妻の結びつきを変化させた要因は弟子のトム・アウトランドにあることは確かである。そして、トムとの出会いで教授が最初に強く惹きつけられたのは、彼の「声」だといえる。『象徴としての身体』によると、
私たちの声は、どこまでも身体から生み出されるものであり、私たちの魂の表現形式なのである。よく知られているように、地球上には、その声の特性がまったく同一の人間は二人とはいない。人それぞれに特徴があって、それを発達させており、取り違えのない音色を持っているのである。(205)
つまり、「声」にはその人の生き方が凝縮して表れるのである。まず、教授が初めてトムに会った場面を見てみよう。
The first thing the Professor noticed about the visitor was his manly mature voice-low, calm, experienced, very different from the thin ring or the hoarse shouts of boyish voices about the campus.(95, 強調は論者)
(教授がその訪問者について最初に気付いたものは、その男らしい、成熟した声だった。それは低く、静かな、体験を積んでいるような声で、大学構内のあちこちでする子供っぽい声のかすかな響きや、しわがれた叫び声とは非常に違ったものだった。)
この場面で教授はトムの声から、彼が20才にして他の大学生の青年とは異なった人生を歩んできたことを感じとっている。魅力的な声を持つトムを教授は家へ招き、さらに他の身体部位を観察する欲望にかられ、トムの手を鑑賞するためトルコ玉を利用する。
"Hold them still a moment," said the Professor, looking down, not at the turquoises, but at the hand that held them: the muscular, many-lined palm, the long, strong fingers with soft ends, the straight little finger, the flexible, beautifully shaped thumb that curved back from the rest of the hand as if it were its own master. What a hand! He could see it yet, with the blue stones lying in it. (103, 強調は論者)
(「ちょっと、じっとそれを持っていてくれ給え」教授は、トルコ玉ではなくて、それを持っている手を見下ろしながら言った。それは逞しい、沢山の筋のある手のひらと、先の軟らかい、長くて力強い指、まっすぐな小指、まるでそれだけ独立しているように、曲線を描いて他のものから離れていて、よくしなえる、美しい形をした親指からなっていた。何という手だ! 彼は更にその手に青い石をのせているのを見ることができた。)
そして、教授は指が長く、逞しいトムの美しい手をほれぼれと見とれている。妻リリアンの手は「美しい手」だと称賛しながらも、細かな観察はしていない。それに対してトムの手についてはその詳細を観察して、自分が理想とする魅力的な手だと感嘆している。身体の面で、異性のリリアンよりも同性のトムに強く惹かれていくことが、つまりトムの声は"manly"(95)で手は"muscular"(103)と男性的であることが、教授の変容のきっかけとなっていると考えられる。教授のリリアンに対する感情はどのように変化したのだろうか。

U

 教授はトムに惹かれるにつれて、妻リリアンへの愛情は薄れたものになっていったことは否定できない。長女夫妻と一緒に夏にフランスへ行くという計画も、フランスはトムと旅行する予定が実現しなかった場所であり、リリアンとの間に溝ができた教授には気乗りのしないもので、仕事があることを理由に誘いを断っている。彼はもはや妻を愛していないことを自覚し、娘婿のルイ・マセーラス (Louie Marsellus) がリリアンの面倒を見てくれることを快く思うほどになっている。家族旅行について仕事を優先するとの理由から断ることで、もはや家族の枠組みから外れようとする教授の願望を示しているといえる。Joan Acocella は、教授が結婚という制度には適応できないとみなす見解を示している。

The Professor is an "ungenerous and dishonest" man, basically a sexist pig, who cares only about his work and who, under the cover of his hypocritical antimaterialism, abuses the excellent woman around him. (Acocella 41-42)
(教授は「卑劣で不誠実な」男で、基本的に女性差別主義者で自分の仕事についてだけ気にする人で、偽善的な反物質主義の見せかけのもと、彼のまわりの有能な女性を抑圧している。)
つまり、教授は家父長制度の中で男性に従属する立場にある女性を嫌悪し、抑圧して仕事を口実に旅行を断るような冷淡な面を持っていることは明らかである。そして、フランス旅行を断ったことで、リリアンは夫への不信感をあらわにする。娘や妻から距離をとり、女性嫌悪的側面を見せる教授の変貌ぶりを、リリアンは理解できず苦悩して、"'Godfrey,' she said slowly and sadly, 'I wonder what it is that makes you draw away from your family. Or who it is.'" (141) (「ゴッドフリ」彼女はゆっくりと悲しげに言った。「あなたを家族から引き離すのは何でしょうかしら。それとも誰なんでしょうね」)と嘆くのである。

 そして、リリアンが二年前は明るく家族とも円満な関係にありながら、今では心を閉ざしている教授の心の変化を見逃さず、"'It's in your mind, in your mood. Something has come over you.'" (142)(それはあなたの心の中に、あなたの気分の中にあるのよ。何かがあなたに起こったのよ。)と断言している。教授はそれがトムを失った心の傷であることを自覚しながらも、リリアンにはあいまいな答えをする。

"I can't altogether tell myself, Lillian. It's not wholly a matter of the calendar. It's the feeling that I've put a great deal behind me, where I can't go back to it again-and I don't really wish to go back." (142)
(「私は自分でもまったく言えないのだよ、リリアン。それはまったく暦の問題ではないのだ。それは私の背後にどっさり置き去りにした感情なのだ。そしてそこへ私は再び引き返すことはできないのだ。―そして本当に引き返そうとは思わないのだ。」)
Janis P. Stout は、教授のトムを喪失した悲しみは教授を目覚めさせ、抑制的な感情表現として表れていると指摘している。
Yet St. Peter knows that his intense feelings for Outland, and through him for a whole quality of life now lost, would not be acceptable or even comprehensible to others. They are indeed, not expressible; they are a very powerful "thing not said." And so the stifling of emotional expression, the impossibility of understanding or being understood, occupies the center of the novel. (Stout 89)
(しかし、セント・ピーターは彼のアウトランドへの激しい感情を知っていて、彼をとおしてすべての生活のすばらしさはもはや失われ、他の人にはそれは受け入れることができず、理解できないことだった。それらは全く表現できない、とても強烈なもので「言葉では言えないこと」だ。そして、感情を抑制し、理解できず、理解されることも不可能なことが小説の中心にある。)
つまり、教授がリリアンに本心を明らかにできないのは、教授自身が "my friendship with Outland" (50)と娘のロザモンド (Rosamond) に話すように、トムへの友情が実はホモソーシャルなものであったことに気づいていないからといえよう。それでは、リリアンは二人の関係をどう見ていたのだろうか。
It was not until Outland was a senior that Lillian began to be jealous of him. He had been almost a member of the family for two years, and she had never found fault with the boy. But after the Professor began to take Tom up to the study and talk over his work with him, began to make a companion of him, then Mrs. St. Peter withdrew her favour. (151) (リリアンがトムを嫉妬し始めたのは、トムが四回生になってからのことだった。二年間は殆ど家族の一員のようだったし、彼女もこの少年を決してとがめることはなかった。しかし、教授がトムを自分の書斎まで連れてきて、仕事について彼と話し始めてから、彼を連れにし始めてから、セント・ピーター夫人は好意を示さなくなった。)
このように、最初は好意的にトムを受け入れたリリアンも教授とトムの関係があまりに密接なため、態度を一変させることになる。リリアンに親密な交際を気づかれたため、教授とトムは、大学の教授の講義室後ろにある小部屋で会っていた。また、家族がコロラド州へ行き、教授だけが家に残っている夏には教授とトムは泳ぎに行ったり、湖で帆船に乗ったり、教授が食事を作ってトムを招待するなど、排他的共同体を形成して全く二人だけの世界を築いていたのである。つまり、教授は気づいていないトムとの友情を越えた強い絆をリリアンは感じていたと考えられる。

 第三章で、教授にとってトムとの偶然の出会いが、幸運そのものであったことが明らかとなる。

Just when the morning brightness of the world was wearing off for him, along came Outland and brought him a kind of second youth. (234)
(世界の朝の輝かしさが彼には徐々に消えかかっているように思われた時、アウトランドがやって来て、彼に一種の第二の青春をもたらした。)
人生の晩年に近づきつつあった教授にとって、トムに会ったことで青春時代を取り戻して楽しい日々を送るのである。二人の付き合いが深まった要因は、トムが研究生活に入り、以前の生徒と先生の関係から解放され、対等な立場で付き合えることが可能になった事実が基盤にある。二人は教授の研究リサーチのため、南西部へ行ったり、オールド・メキシコを旅行したり、二人だけの世界が確固たるものとなるのである。

 トムの身体の中で教授が最も賛美していたのは彼の「手」であり、今は亡きトムを思い出す時も彼の「手」が真っ先に浮かぶのは当然といえよう。

What change would have come in his blue eye, in his fine long hand with the backspringing thumb, which had never handled things that were not the symbols of ideas? A hand like that, had he lived, must have been put to other uses. His fellow scientists, his wife, the town and State, would have required many duties of it. It would have had to write thousands of useless letters, frame thousands of false excuses. It would have had to "manage" a great deal of money, to be the instrument of a woman who would grow always more exacting. He had escaped all that. (236-237)
(どんな変化が、その青い眼に、観念の象徴ならぬものを扱ったことのない、後ろへよく曲がる指のついた、その美しい、長い手に起こったであろうか。そのような手は、もし彼が生きていたとしたら、数々の他の用途に使われていたに違いない。彼の仲間の科学者や妻や町や州は、その手に対して沢山の義務を要求したことだろう。それは幾千もの偽りの口実を作らねばならなかったことだろう。それは沢山の金を「取り扱い」、いつも益々強要的になるような婦人の道具にならねばならなかったことだろう。彼はいっさいのそうしたことから免れていた。)
リリアンへの愛もさめ、女性嫌悪、女性恐怖にさいなまれる教授にとって、トムは強い力を持とうとする女性に従う苦労を味わうことなくこの世を去り、そんなトムをうらやましく思うのである。教授の立場は家族の中で孤立したものとなり、トムの発明で得た収入で新居を建設した長女夫婦やその収入を使うことに積極的なリリアンを見て、一層欲にくらんで自己の欲求を満足させようとする女性への嫌悪感を教授は深めていく。誰かを失っても通常は従来の生活が維持できるものだが、教授にとってトムを喪失した衝撃は大きかったため、結婚生活を維持することでさえ困難になったといえよう。ルイ・マセーラスが“We have named our place for Tom Outland, a brilliant young American scientist and inventor, who was killed in Flanders, fighting with the Foreign Legion, the second year of the war, when he was barely thirty years of age.”(30) (私たちは、素晴らしい、アメリカの青年科学者であり、発明家である、トム・アウトランドに因んで、こんどの住居の名をつけたのです。彼は戦争の二年目、やっと三十歳になったばかりの時、外国軍団と戦ってフランダース戦線で戦死したのです。)と語るように、トムの死は突然のことであった。Janis P. Stoutはトムの死をきっかけに心に深い傷を負った教授にとって、重要なのは現在ではなく過去なのだと指摘している。
Like Cather, St. Peter cannot bring himself to share their migration. Feeling emotionally cut off from the homemaking of others, who are at once near and strange to him, he shuts himself up with his memories, turning his face so firmly toward the past that he very nearly chooses death over life. (Stout 89)
(キャザーのように、セント・ピータは彼らの引っ越しに参加する気になれない。他の人々の家庭の管理からつまはじきにされたことを感じ、かつて彼に親しかったがよそよそしくなり、彼の思い出に閉じこもり、とても断固に過去に顔を向けるので彼はもう少しで人生で死を選ぼうとしている。)
そして、この苦痛に満ちた状況から逃れる手段を考えると、教授は「死」しかないと確信する。

 第二の青春をもたらしたトムを失い、妻や娘たちとの溝は深まり教授は絶望感を味わい、 The feeling that he was near the conclusion of his life was an instinctive conviction, such as we have when we waken in the dark and know at once that it is near morning; or when we are walking across the country and suddenly know that we are near the sea. (245) (彼が人生の結末に近づいているという感情は、例えば、私たちが暗闇の中で眼を覚まして、じきに朝が近いと感じる時とか、田野を横断していて、突然海の近くにいるのを知る時に持つような、本能的な確信だった。)と、教授の苦悩する姿が浮き彫りとなるのである。トムを喪失したことで教授の行動には変化が見られ、古い家の屋根裏にある書斎に閉じこもりがちになり、その部屋でトムとの思い出に耽り、リリアンとの関係も不全となってしまう。教授は自らの行動の原因を認識していないが、リリアンはそれがトムを失ったためだと気づいているのである。そして、教授はもはや家族を愛せず、彼らと一緒に生活する気持ちにもなれないでいるのである。John P. Anders は、男同士のつき合いが女性から逃れることを可能にすると次のように指摘している。

His male company there provides an escape from marriage and the world of women. All-male companionship runs throughout Cather's fiction such as the recurring image of a group of boys around a campfire, teachers and pupils, and adult friends. (Anders 103)
(彼の男同士の仲間は、結婚や女性たちの世界からの逃避の場を与える。キャザーの作品で描かれる男たちの付き合いは、キャンプファイヤーのまわりにいる少年たちや先生たちと生徒たち、そして大人の友達などが思い出されるイメージとして描かれている。)
こうして教授はトムと男同士の友情を深めることで、結婚からも女性からも逃避していた。それでは、なぜ教授はリリアンを拒絶するのであろうか。それは異性間恋愛と結婚を基盤として人生を歩んできたリリアンが、教授に夫、父親として行動することを強制して、そのことが教授には耐え難いことであるためである。従って、リリアンとともに暮らすことは、女性を嫌悪する教授にはとてもできないことだといえよう。
He loved his family, he would make any sacrifice for them, but just now he couldn't live with them. He must be alone. That was more necessary to him than anything had ever been, more necessary, even, than his marriage had been in his vehement youth. He could not live with his family again-not even with Lillian. Especially not with Lillian! Her nature was intense and positive; it was like a chiselled surface, a die, a stamp upon which he could not be beaten out any longer. If her character were reduced to an heraldic device, it would be a hand (a beautiful hand) holding flaming arrows-the shafts of her violent loves and hates, her clear-cut ambitions. (250)
(彼は家族を愛していた。家族のためなら何でもしようと思っていた。しかし今は彼らと一緒に生活することはできなかった。独りにならなければならない。それは彼にとってはこれまでの何ものより以上に必要であった。はげしい青春時代の結婚よりも以上に必要でさえあった。彼は再び家族と生活を共にすることはできないであろう。リリアンと一緒でさえも。特にリリアンと一緒では! 彼女の性質ははげしく、積極的だった。それはのみで彫った表面とか、打ち型のようでもあり、彼という人間がもはやそれでは打ち出されることのない型のようであった。もし彼女の性格を紋章の図案に変えることができるとすれば、炎と燃える矢、すなわち、激しい愛と憎しみの、はっきりした野心の、矢をもっている手(美しい手)となるであろう。)
このように父権社会から逸脱した教授は、もはや家族を愛することはできないのである。彼にとって、家庭内で夫、家族の支柱である力強さと包容力を備えた父として位置づけられることがもはや耐え難いことになっていたと考えられる。ヘテロソーシャルな社会でホモセクシャルを隠蔽してトムとの関係を楽しむことが、教授の男性的自我を維持する必要条件となっていたことは否定できない。そして、教授はロザモンドに "In a lifetime of teaching, I've encountered just one remarkable mind; but for that, I'd consider my good years largely wasted." (50) (生涯教職に携わって、私は一人だけ素晴らしい心の人にめぐり会ったのだ。それがなかったなら、私の楽しかった幾歳月も、大部分、空しいものと思うだろう。)と語り、教授の人生で最も大切な人はリリアンではなく、トムであることは言うまでもない。

 さらに、教授は自殺未遂で一時的に意識を失ったことで、自分が喪失したものは何かを自覚する。それは、家族であり、トムだったのである。

His temporary release from consciousness seemed to have been beneficial. He had let something go-and it was gone: something very precious, that he could not consciously have relinquished, probably. (258)
(一時であったが、彼は意識を失ったことは、彼にとってプラスになったように思われた。彼は何ものかを捨離していた。そしてそれはなくなっていた。おそらく意識のある状態では、彼が放棄することができなかったであろう、何か非常に貴重なものがなくなっていた。)
従って、意識を失ったことで教授が内面的苦悩の原因を再確認する機会を得たことは明らかである。つまり、自殺未遂がきっかけとなり、教授自身がトムを失ったことで父権的主体が崩壊したことに気づいたといえよう。トムとの思い出に、つまり過去に束縛されていた教授は、現実と向き合う姿勢を取り戻したのである。

V

 ホモソーシャルなトムとの関係により、教授はリリアンが愛せなくなり娘たちとも距離をとり、夫、父の役割を放棄して教授の父権的主体つまりヘテロソーシャルな社会の頂点は崩壊することとなる。ホモソーシャルとホモセクシャルは、竹村和子氏が『現代思想』vol.27 No.1 1999 January で、

「セジウィックの、貢献は大きいとは思いますが、じつはわたしは、両者はそれほど明確に分けられていないと思います。まず両者を分けて考え、ホモソーシャルという分析概念をつくったことは非常にすばらしい。卓越した考察です。けれどもホモソーシャルとみなされている関係に、じつはホモエロティシズムが潜んでいる。むしろ、それをあたかもないかのように装うために、余計にそれを打ち消そうとする同性愛嫌悪が強力になるのです。」(54)
と述べるように、両者の区別は難しいと考えられる。即ち、教授とトムの関係はホモソーシャルからホモセクシャルに発展する可能性があった関係だと言える。なぜなら、ホモセクシャルなものを育てるのが、ホモソーシャルだからである。ホモソーシャルな関係は結果的に教授を家族から孤立させ、トムの死で喪失感が加わり、教授は死を選択するしかない状況に追い込まれる。そして、自殺することで教授のトムへの感情がホモソーシャルにとどまらず、ホモセクシャルな欲望が根底にあったことが教授の認識で明らかになったのである。精神的に再生した教授の姿は、自らの抑圧していた感情を意識することで変容した男性主体を受け入れたことを如実に物語っているのである。この作品において、教授はトムとホモソーシャルな関係になり、それはホモセクシャルな欲望が内面化されたもので家父長制度の中の女性を嫌悪するミソジニックになり、結果としてヘテロセクシャル、家父長制、そして父権的主体が変容していったことは確かである。つまり、The Professor's House は、ホモソーシャルな男同士の絆の基盤により、教授が家族の女性たちの醜い面に気づくことで女性嫌悪になり、家族が崩壊していくことを実証した作品といえるのである。


(本稿は、2001年10月20日の日本英文学会中部支部第53回大会における口頭発表の内容に加筆し、修正を加えたものである。)


(1) テキストは、The Professor's House. Vintage, 1990を使用した。文中訳は『教授の家』(安藤正瑛訳、英宝社)による。
(2) 「ホモソーシャル」については、フランク・レントリッキア、トマス・マクラフリン編、大橋洋一他訳『続:現代批評理論―+6の基本概念』(東京、平凡社、2001年)131-135、233頁に詳しい。 
(3) フロイト著、懸田克、高橋義孝他訳『フロイト著作集5―性欲論・症例研究』(京都、人文書院、1969年)23頁において、「性の対象の代理となるのは、性的な目的にとって一般にほとんどふさわしくないような身体部位(足、毛髪)、あるいは無生物で、性の対象である人物、とくにそのひとの性愛と関係のあることが証明されるようなもの(着物の切れ端、白い下着)である。つまり、フロイトのフェティシズムとは、本来の欲望を代弁する身体の部分を崇拝することで、性的リビドーの対象がずれたものだとされている。」と述べている。


引用文献

Acocella, Joan. Willa Cather and the politics of criticism. Lincoln: U of Nebraska P, 2000.
Anders, John P. Willa Cather's sexual aesthetics and the male homosexual literary tradition.    Lincoln: U of Nebraska P, 1999.
ベッツ、オットー著、西川正身訳『象徴としての身体』青土社、1996.
Cather, Willa. The Professor's House. New York: Vintage, 1990.
キャザー、ウィラ著、安藤正瑛訳『教授の家』英宝社、1974.
フロイト、ジークムント著、懸田克 、高橋義孝他訳「呪物崇拝」『フロイト著作集5 ―性欲論・症例研究』人文書院、1969.
McCallum, Ellen L. Object lessons: how to do things with fetishism. Albany: State U of New York P, 1999.
Sedgwick, Eve Kosofsky. Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire. New York: Columbia UP, 1985.
Stout, Janis P. Strategies of reticence: silence and meaning in the works of Jane Austen, Willa Cather, Katherine Anne Porter, and Joan Didion. Charlottesville, Va.: UP of Virginia, 1990.
竹村和子「対談 上野千鶴子+竹村和子 ジェンダートラブル」『現代思想』vol.27 No.1 1999 January.




The Chukyo University Society of English Languageand Literature
Last Updated: Friday, june 14, 2002

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