The Eye of the Heron における文化を越境する少女

織田 まゆみ


                     T

 Earthsea シリーズ(A Wizard of Earthsea 1968, The Tombs of Atuan 1971, The Farthest Shore 1972, Tehanu: The Last Book of Earthsea 1990)(1) の作者として、ファンタジーの分野で卓越している Ursula K. Le Guin (1929- ) は、SF 作家としてデビューし、The Left Hand of Darkness(1969) と The Dispossessed: An Ambiguous Utopia (1974) の2作品で、ヒューゴー賞・ネヴィラ賞のダブル受賞を成し遂げた「SF 界の女王」でもある。

 しかし、ル・グィン自身はSF作家という肩書きに対して複雑な反応をしたように思われる。つまり、一方では、その範疇に飲み込まれるのを避け、他方では、SF の擁護にまわったのである。彼女は、SF作家としてのデビュー理由を "my first efforts to write science fiction were motivated by a pretty distinct wish to get published: nothing higher or lower." ("Mondath" 23) と告白しているが、ここには SF コミュニティの自己ゲットー化から距離を置きたい気持ちがうかがえる。しかし、批評家や大学人によるジャンル分け、つまり、文学的キャノンとその他を分断することで、SFの価値を下げることについては、その政治性を批判するのである。

 そして、アメリカにおけるSFをめぐる状況に批判的なこの姿勢は、自身の作品に関する真摯な姿勢と連動しているのではないだろうか。ル・グィンは 1992年の講演で、"The late sixties ended a long period during which artists were supposed to dismiss gender, to ignore it, to be ignorant of what sex were."( Revisoned 6 )と述べているが、実はこの問題こそ70年代には既にSF作家として名を成していた彼女が、自らに問いかけ続けたものに他ならない。というのは、ル・グィンは「女装した男性」と評されたこともあるような "無性"、あるいは "中性的"(2) な作風ゆえ、男性読者にも抵抗なく受け入れられた要素があるのだが、60年代に再燃したフェミニズムから大きな影響をうけただけではなく、The Left Hand of Darkness の両性具有者を表わす「総称としての he」使用に対するフェミニストからの批判を無視することができなかったからである。さらに、小谷真理が述べるように、77年のジェイムズ・ティプトリー・ジュニアのペンネーム暴露事件(3) が「ただ単に男と女をひっくり返したような性差観から解放されるきっかけになった」(65)ともいえるかもしれない。いずれにしても、ル・グィンの70年代は新境地を求めて模索している時期といえるのではないだろうか。

 本論稿でとりあげる The Eye of the Heron (1978) は、どちらかというと静寂な作品であり、批評家たちも無視しがちであるにもかかわらず、70年代のル・グィンのこの試行錯誤を映し出している作品である。この作品の少し前、"American SF and The Other" (1975) において彼女は、性のエイリアン、社会・文化のエイリアン、種族としてのエイリアンを SF はどう扱っていたのかを問いかけ、"In general, American SF has assumed a permanent hierarchy of superiors and inferiors, with rich, ambitious, aggressive males at the top, then a great gap, and then at the bottom the poor, the uneducated, the faceless masses, and all the women." (95-96) と結論づけている。ということは、少なくともこの批評を書いた75年以降、彼女が書く作品は、女性・民衆・他種族の描き方についてかなり意識しているということになるだろう。実際、The Eye of the Heron と同様に辺境の惑星を舞台にした 10年前の作品 Planet of Exile (1966) を見るとそのあたりの変化は顕著である。

 Planet of Exile は、一年が 24000日ある惑星を舞台に、冬の到来とともにやってきた Gaal(ガール族)の襲撃が契機となることで冷淡な関係にあった2つの種族が結びつく話である。それまで、この2つの種族は互いに、自らを men と称し、相手を farborn (ファーボーン)、hilf ( highly intelligent lifeform, ヒルフ) と呼び、接触をさけていたのである。ところが、ファーボーンの頭 Agat(アガト)とヒルフの娘 Rolery (ロルリー)に恋が芽生え、2種族は対外的にも対内的にも変化を迫られる。しかし、ファーボーンは惑星外からやってきた高度な文明をもった人々が「文化制限法」に則って、つまりその惑星の人々の文化を破壊しないように暮らすことを決めた人々の子孫であり、かつての文明の忘失と人口減少が進行しているのに対し、文字をもたないヒルフは、ファーボーンが目論んだ「進歩」概念からはほど遠い暮らしぶりであるにもかかわらずその惑星の環境に順応している、という設定や、ファーボーンの男性アガトがヒルフの女性ロルリーを保護しようとする気持ちが強いこと、ロルリーは大して悩むことなく、ファーボーンの集団に入ってしまうことなどは、2つの文化関係、男女関係が、「熟慮と保護意識」対「素朴でしたたかな態度」をそれぞれ表象し、結果として関係の「高低」をあらわすと思われる。平等ではないのである。つまり、この作品は「高度」文明をもつ種族の衰微に一種の皮肉をきかせながら、しかし全体としては、ル・グィンが批判したアメリカSFにおける女性や民衆の描き方と同じ傾向が伺われるのである。

The Eye of the Heron でも舞台は孤立した惑星ヴィクトリアである。だが、物語に登場する2つの集団はどちらも地球からの移住者であり、Planet of Exile のような異種族同士より互いに近い関係にあるといえるだろう。また、これら2集団関係の変化を促すのは Planet of Exile でのガール族の襲撃という外部からの圧力と違い、ひとつの集団の開墾計画である。そして、一方の集団の男性Lev(レヴ)と他集団の女性 Luz(ラズ)の恋が暗示されるが、ラズはロムリーのように、その恋だけを手掛かりに集団を越境したともいえないのである。

 本稿では、Planet of Exile との違いを考えつつ、The Eye of the Heron の2つの集団とそれを越境してしまった女性ラズの行動を考察することで、70年代のル・グィンの変化を捉えたいと思う。

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 まず、惑星ヴィクトリアの2つのコロニー集団を考えてみたい。2つの集団居住地は6キロ離れているのだが、一方の集団は、Victoria City(シティ)、もう一方は、Shantih Town(タウン、あるいはシャンティタウン)と呼ばれていて、それぞれ 8000人、4000余人の人口を有している。そして2つのコロニーの外には、荒野が広がっている。

 シティの人々は 111年前地球から送られてきたのだが、ブエノスアイリス、リオなど BrasilAmerica (ブラジルアメリカ)の大都市出身者が多かった。したがって農業のやり方を知る人は少なく、シャンティタウンの人々が来るまでは何度も飢饉があったという。評議員 Falcon (ファルコ)の一人娘ラズは偶然、医者が忘れていった本を見つけるが、それには 2027年の日付などとともに「ヴィクトリア流刑地にて使用のため世界赤十字社より寄贈」と赤い文字が書かれていた。彼女は自分の結婚話を逸らす目的もあって父に「私たちは泥棒か人殺しで、この惑星は監獄なのではないか。船が帰りのことを考えて作られていない理由も、地球人が尋ねてこないのも、私たちが地球に見捨てられたからなのね」と発言する。ファルコは一瞬手をあげようとするが思い直して次のように言う。

They ( our ancestors ) were men. Men too strong for Earth. The Government on Earth sent them here because they were afraid of them. The best, the bravest, the strongest ? all the thousands of little weak people on Earth were afraid of them, and trapped them, and sent them off in the one-way ships, so that they could do as they liked with Earth, you see. (24-25)

この惑星の政治がどのように行なわれているか詳細には書かれていないが、ボスであるファルコを中心とした評議員らシティの上層部が権力を握っていることは確かである。彼のいう「地球には大きすぎた」男たちが地球でどのようなことをしたのかもはっきりと語られないが、権力がある局面では殺しも盗みもやることを考えれば、流刑地に送られた者の中には権力争いにまつわる犯罪に関わった者もいたとの想像は難くないであろう。

 シティには高い塀に囲まれた家々が建ち並び、工場の煙突があり、そして銃をもった護衛のいる議事堂がある。シャンティが地域の農耕に従事し、農作物を提供するのに対し、シティは工場で作った道具や機械、漁船が捕った魚などを提供し2つの集団は相互に依存しているといえようが、ファルコが "You ( Town's People ) aren't members of Government, but subjects of the Government."(44) と述べるように、シティの側はあくまで自分たちの集団がシャンティタウンを支配しているとみなしているのである。

 この権力をかさにきたようなファルコの強い物言いから、この集団が女性をどのように扱うかも容易に想像できる。つまり保護し奉るようなジェスチャーをする一方で、女性は所有物のように扱われるのである。ラズは "the men ran everything. They had it all their way. And the older women were all on their side." (31) である状態にうんざりしている。少女は一人で道も歩けない。酔っ払いの労働者にでも絡まれたら名に傷がつくからだ。汚れていない名前こそが男が娘に求めるものだからなのである。そして結婚してしまえば夫の持ち物となり、子どもを次々と産み、ラズの友人のように「まるで子どもみたいな」癇癪もちの夫に殴られる生活もあり得るのである。つまり、女性を護るためという口実でなされる行為が実は男のためであるという一種のからくりが社会全体をおおっているのである。

 一方、今から 50余年前、つまりシティの人々がこの惑星にきてから 60年たった後、シャンティタウンの人々がやって来た。Shantih という名が示すように彼らは自分たちを平和の民と考えている。彼らはモスクワで始まった The Long March (大行進) に参加した人々で、行進が西進するにつれ増加し、リスボンに着くまで1万人になっていたが、そこから船に乗り約束の地、自由の地のある Canamerica(カナメリカ) に出発する。しかし人数の多さにカナメリカの支配者はびっくりし、また 20年の間続けている共和国との大戦争を拒否してこの平和を求める人々に加わる自国民もでたことから、平和の民を反逆者とみなす。そして、かつて囚人を送った宇宙船が1艘残っていることから、運動の指導者と抽選で選ばれた者を惑星ヴィクトリアへ送り出すことにしたのである。"They must take the Peace to another world" (164) が地球人、カナメリカの支配者たちの目的だったとシャンティの人々は考えている。

 シャンティは水田のある村々で成り立ち、人々の生活は激しい労働と仲間うちの連帯のうちに過ごされている。シティとの取り引きの条件はしだいに不公平になってきていたが、これまでのところシャンティの人々の方が妥協し事態に適応してきた。しかし、シャンティの住人全員がガンジーやキング牧師の生涯について知っていたし、平和の民の歴史や思想について学んでいた。シャンティ内でもめごとがあると、あるときは激論を、あるときは無言のうちに同意して、問題の解決や意見の相違の解消へといたる過程を実践するなかで日常的に訓練され、"They had learned that the act of violence is the act of weakness, and that the spirit's strength lies in holding fast to the truth." (59-60) という態度を形成されているのである。

 シティの人々のような階層分けはなく、重要なことは集会で決定される。新しく開墾地を開くという提案に対して、積極派の Vera (ヴェラ)、レヴ、Andre (アンドレ)、Southwind (サウスウィンド)らに対し、慎重派の Elia(エリア)グループもいるが、それぞれが怒りをみせることなく熱っぽい討論を続けるのである。

 シャンティでは、女もズボンをはいて働き、集会で意見を述べ、女だからと制限されることはないようにみえる。事実、開墾計画の報告に議会にやってきたシャンティの代表者は女性のヴェラであった。しかし、反逆行為と決めつけられ監獄送りになる代表者団と切り離されて、ただ一人ファルコの家に拘留されたヴェラは、ラズに次のように述べる。

“I like men very much, but sometimes they're so stupid, so stuffed with theories. You see it seems to me that where men are weak and dangerous is in their vanity. A woman has a center, is a center. But a man isn't, he's a reaching out. So he reaches out and grabs things and piles them up around him and says, I'm this, I'm that, this is me, that's me." (85)
そして、ファルコも、シャンティの若者でリーダー的存在のレヴも同じ意味で虚栄心が強いと言う。このレヴの虚栄心は、シティにかりだされた大農場建設のための強制労働から、暴力をふるうことなく逃亡に成功した時の "it was I, Lev thought with incredulous delight, it was I who spoke for them, I whom they turned to, and I didn't let them down."(100) という喜びに示されているように思われる。また、ラズがレヴやサウスウィンドに向かって「どうしてここを抜け出して新しい開墾地に逃げないのか」と問いかけた時の反応もそうであろう。開墾地探検の途中で夫を亡くしたサウスウィンドは最初「自由は犠牲によって勝ち取られる」とシャンティの「常識」で答えるが、その後 "So long as we stand and fight, even though we fight with our weapons, we fight their war." (128) と述べる。レヴはこの発言はシャンティの完全な団結に対する侮辱であると感じて反論し、サウスウィンドは悲しそうにうなずくのである。ここにはファルコの使う生の暴力はないが、原則・規則・原理といったものがいかに大きくシャンティの人々を支配しているか、そしてそれに熱中しているのは男であることが示されているのではないだろうか。つまり「反体制運動が、「もうひとつの家父長制」、エリートになりそこねた男たちによる対抗エリート主義」(上野、175)である可能性もあるのである。

 このように、惑星ヴィクトリアにおける2つの集団を動かしているのが男たちの論理であることを考えると、それぞれの集団の「歴史」も、His Story としての History ではないか、という疑問も湧いてくる。だから「シャンティの思想に感銘をうけたからではない、ただシティから逃げてきたのだ」と主張し、どちらの集団にも属していないというラズは、レヴが自分たちの歴史にふれて、"They wouldn't have sent us off into exile, would they, if they hadn't been afraid of us?" (122) と言った時、「それは父が自分たちの先祖について言っている事と同じだ」と看破したのであろう。

 さて、シャンティの人 1000人が移住するという開墾計画をつぶし彼らの力をそぐために、ファルコは若い Macmillan (マクミラン)に私設軍隊を作らせ、無抵抗と相談という戦術をとるシャンティの人々を挑発し、指導者を捕まえることで、シャンティから攻撃を仕掛けさせようと作戦を練る。シャンティに彼らの原則を破らせようともくろむのである。一方シャンティは、強制労働からの逃亡の時点で、交渉と仲裁−非協力−最後通告−市民としての反抗という4段階にわたる抵抗方法の2番目まで進んでいた。ところが、私設軍隊がシャンティに送られる情報を立ち聞きしたラズは、「マクミランは部下に命じてシャンティの女性に手をださせるつもりよ。だから警告にいくべきだわ」とヴェラを逃がそうとするが、牢に入るという約束を重んじる彼女は拒否、ラズは思わず「私が警告に行く」と言ってしまう。当初はシャンティに話したらすぐに帰ればいいと考えていたラズだったが、自分がシティを裏切ったこと、自分の存在が暴力の口実になりかねないことに遅まきながら気づき、「父の計画に賛成できず、自発的に家を出て、シャンティに留まっている」とファルコに手紙を書く。父親として一人で交渉に来て「マクミランと結婚しなくてもいいから戻ってほしい」と妥協するファルコ、ラズと話し合うなかで "She was different, alien to him. Like the gray heron of the Meeting Pool, there was a silence in her, a silence that drew him, drew him aside, toward a different center."(122) と彼女にひかれていくレヴだったが、ラズに関わりの深い2人の個人的思惑を離れて事態は進みだしていたのである。

 シティの軍隊とシャンティの人々が山上で対決した朝、ファルコの指示を無視したマクミランがレヴを射殺したのを契機にマクミランの部下が発砲、ファルコはマクミランを殴り殺す。乱闘がおき、シティ 8名、シャンティ 17名の死者がでる惨事となった。"They had died in the name of peace, but they had also killed in the name of peace."(155) という事態のなかで、平和の民であるシャンティの人々は自らの原則を破ってしまい、マクミランを殺したファルコは「狂った」として監禁される。そして、疲労と無力感の漂うなかで、レヴの後任エリアはシティとより公正な取引、大農場計画の変更など、妥協の道を模索している。ただラズだけが、荒野の開墾計画のことを問いかけ続けるのである。

以上考察した2つの集団のイメージや闘争は、ル・グィンが住むアメリカをかなり意識したものであろう。中南米の植民者としてのスペイン人、「遅れてきた」アメリカ移民であるロシア・東欧・アジア出身者がそれぞれシティ、シャンティをイメージするだけでなく、シャンティの抵抗運動は、モントゴメリーの「バス・ボイコット運動」を成功させて一躍公民権運動の指導者となった、Martin Luther King 牧師(1929〜68)の思想を反映しているといえるのではないだろうか。キング牧師の主張した「非暴力と直接行動」は世界に大きくアピールし、作中の大行進もワシントン大行進を意識していると思われる。だがキング牧師の希求した公民権運動は、大きくなるにつれ、その「非暴力」原則が危うくなったり、「非暴力」運動そのものへの批判もでてきた。彼が率いたメンフィスの行進でも、FBIに通じている者が紛れ込み、略奪行為を行なうなど混乱が生じる中で黒人少年が警官に射殺される事件がおき、さらに一週間後キング牧師も暗殺された。これらに象徴される、暴力社会のなかでの「非暴力」運動の困難さ、あるいはそれを維持する苦闘はThe Eye of the Heron の山上の戦いに通じるものであろう。

 しかし、どちらが勝ったともいえない山上の戦い後に続く辛く、苦々しい妥協は、地球から追放された2つの集団がそこにいる限り、対立しながらも結局は双方を頼るしかないこと、つまり人々は「さまざまな理由によって、その権力空間を支えている側面がある」(杉田、57)ということを如実に表わしているともいえるのである。そして、この惑星への移住からまだ100年しか経っていないからこそ、2つの集団は「地球」をひきずり、差異もはっきりしているが、もっと長い時の流れの中で見るならば、集団間の相互作用で、それぞれは確実に変化していくことだろう。

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 次にシティからシャンティへと越境したラズを考えてみたい。この作品がアメリカをイメージしていることは前述したが、アメリカ史における文化越境の代表といえば、ポカホンタスであろう。

 ポカホンタスは、あわや殺されるところだったジョン・スミスの命を救ったとされる先住民大首長の娘で、後キリスト教に帰依し植民者ジョン・ロルフと結婚、イギリス王室に拝謁するもヴァージニアへの帰途病死した 17世紀の女性である。スミス救出美談に関しては疑問も呈されているが、この美談が芝居や絵画に利用され、様々に肉付けされて、一種の神話が形成されたのである。そして Hulme が "The major feature of this myth is the ideal of cultural harmony through romance." (141) と述べるように、ロマンスが異文化間を調和するのであるが、救出相手と結婚相手が同一人物ではないことになんとか辻褄を合わせつつ、「野蛮を捨て文明に帰順する「良きインディアン」の創出」(正木、32)を目論むのである。

 しかし、ラズはシティからシャンティに越境したものの、それはポカホンタスがキリスト教に帰依したように、シャンティの思想に共鳴したからではない。彼女がシャンティに行こうとしたのは以下のようなシティの生活への怒りによる。
"I heard them talking, Herman Macmilan and my father.... What they said made me angry. It made me sick.... I came because I'm sick of being used and sick of lies and sick of doing nothing." (113)
彼女は父が好きだったが、父が人を利用するのにうんざりしていた。父は彼女を餌にしてマクミランを利用しているが、「僕の軍隊、僕の領地、ぼくのラズ」とささやく美しい外観に隠されたマクミランの恐ろしさを、"His soul is about the size of a toenail.... He likes to hurt people.... He fills up his whole world. All you can do with that kind of man is hit him, or run away from him."(114) と、ラズは父より的確に把握していたのである。

 また彼女は、シャンティの人々の原則を重んじる態度にも疑問をもつ。結婚して子どもを持つことは、強制ではなく選択肢のひとつにすぎないと気づかせてくれたヴェラは、母のいないラズにとって学ぶところの多い同性の年長者だったが、シャンティが危ないというのに、約束を重視して逃げようとしないことにラズはあきれる。また、開墾地をみつけたにもかかわらず報告のため帰ってきて、地図を議会に提出して「まず平等と自由選択の原則を」と主張するレヴの態度やシャンティのやり方にも納得できない。私たちは地球生まれではないのだから、地球式を踏襲することはないという意見なのである。そして、自分の父親がマクミランを殺したことについては、次のように言う。
"He wasn't trying to prevent more shooting, more killing, and he wasn't on your side. Don't you have anything in your head but reason, Senhor Elia? My father killed Macmilan for the same 'reason' that Lev stood up there facing the men with guns and defying them and got killed. Because he was a man, that’s what men do. The reasons come afterward." (158-159)
ここには、なんでも説明をつけたがるシャンティへの批判がある。

 レヴは当初、ラズをシャンティの論理で理解しようとしたが、それでは理解できない彼女にむしろ魅力を感じる。ラズの自由を求める気持ちは、シティの論理もシャンティも超え、かごにいれると死んでしまうこの惑星の野生動物のようである。また、ラズも、より正直に自己を語れるシャンティの人々のなかで、承認と否認によって形づくられる自己形成を進めていったと思われる。レヴとラズは互いに惹かれ始めていたが、しかし、彼らの関係が何か決定的なものになる前にレヴは死んでしまうのである。

 シティからシャンティに越境したラズはポカホンタスのように、あるいはロムリーのように、越境した文化の中にも根をおろすことはできなかった。彼女はシティの裏切り者、シャンティのよそ者だった。だから自分の場所をみつけるために、彼女はもうひとつの越境を試みなくてはならないのである。そしてその越境とは、シティとシャンティの閉塞した関係から抜け出して、荒野で新しい生活を始めることなのだ。彼女はアンドレに自分の思いをぶつける。
"Why do we have to stay here, here, huddled up here, destroying each other? You've been in the wilderness, you and Lev and the others, you know what it's like ... You just go. Far! And when you’ve gone a hundred kilometers, or five hundred, or thousand, and you find a good place, you stop, and make a settlement. A new place. Alone." (170-171)
それは逃げることではないかと問うアンドレに向かい、"You talk about choice and freedom .... What was your Long March for? What makes you think it ever ended?" (171) とラズは怒って言い返す。人間集団の周縁にいる彼女は、それだけ荒野に近い位置におり、だからこそ、シャンティの祖先が行進にかけた思いも理解できるのであろう。ラズはポカホンタスよりさらに先をめざしたいのである。

 物語は、少人数づつシャンティを密かにぬけだした男女が、新しい開墾地をみつけそこで定住するところで終わる。新たな場所から新しい出発を始めようとする 67名の行為は、この惑星の ring tree(リング・ツリー)のようである。この木は何年かに一回花が咲き、何百個も実がなるのだが、一つを除いてみんな干からびて落ちてしまう。残った実が大きくなるにつれ、木は弱って枯れていくが、ある日熟した実が破裂、木に円を描く形で何百という種が土に落ちる。そこから芽が出て、強い芽が残り、何十年とたつなかで木々が互いにからみつき円を描いて育っていくのである。このようにして木のリングが形成されるのだが、人々の荒野への旅も、リングツリーの実が弾けるようなラズの越境行為に刺激された新しい芽吹きなのではないだろうか。

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 以上、惑星の2つの集団と、ラズの行動について考察をしたが、ル・グィンが女性を描こうとした試行錯誤がこの作品にはよくでていると思われる。まず、ラズを安易にシティとシャンティの媒介者にしなかったところは慧眼であった。男と男の論理がぶつかり、どうしようもなくなったところに、女、しかも少女が世界を救おうとするという構造は、まさにシティ式の女を奉るジェスチャーに他ならないからである。また、ル・グィンは、理想をかかげる人たちのやり方に理想ゆえの硬直さを、そして思想にもとづく運動にも見いだされる一種の家父長制を、むきだしの男中心の社会と同様暴いてみせ、相対化した。どちらも女性にとって同化できないと言ったのである。そして最終的に、女性ラズが自由を荒野に求める、という物語の構図は、文化と自然の中間にあるとみなされる女性の中間的位置そのものが、"we may envision culture in this case as small clearing within the forest of larger natural system." (Ortner, 85) という開墾地の境界線に象徴されているからであろうし、シティにもシャンティにも求めることのできなかった彼女の自由とは、未踏の荒野のように、まだ人が手にしていないと示唆したのである。

 しかし、ル・グィンは、7年前の The Tombs of Atuan と同様、この作品でも、積極的な母ー娘関係も異性愛の成就も書くことができなかった。ラズは母の顔も知らないし、ヴェラは山上の戦いの後で全く生気を失ってしまう。また、子どもっぽい権力者である夫と、殴られたり機嫌をとったりする妻という関係は書けるのに、自由を求める女性の異性への愛とそのような男女の関係は、男を殺してしまうことで書かずに済ましてしまったのである。ラズの自由と同様、ル・グィンも荒野への旅を必要としていたのであろう。

 さて、ル・グィンは自作に真摯だと前述したが、そのひとつの証拠は、"Is Gender Necessary?" において、当初の 1976年版(アメリカ版)と、改訂版である 1988年版(イギリス版)の記述を、ページを半分に分けて左右対照にしていることである。したがって、ル・グィンの考え方の変化がよくわかるのだが、次の個所に注目したい。
To me the "female principle" is, or at least historically has been, basically anarchic. It values order without constraint, rule by custom not by force. It has been the male who enforces order, who constructs power structures, who makes, enforces and breaks laws. (1976)
I would now write this paragraph this way: ...The "female principle" has historically been anarchic; that is anarchy has historically been identified as female. The domain allotted to women "the family", for example is the area of order without coercion, rule by custom not by force. Men have reserved the structure of social power of themselves (and those few women whom they admit to it on male terms, such as queens, prime ministers); men make the wars and peaces, men make, enforce and break the laws. (1988) (163-164)
後半の部分の「男たちが社会的構造を自分たちのために温存してきた」という部分は、88年版で、女にも少数その恩恵に浴するものがいる部分を付け加えただけで、基本的には変わっていないといえる。しかし前半部分は、「女性原理」はアナーキーなものだ、としたところを、歴史的にアナーキーと見なされてきたと変えることで大きな転換をしている。つまり、70年代のル・グィンは、「女性原理」を構築されたものではなく、本質主義的に捉えていたということがいえるだろう。そして、2つの版とそれらの記述の中間に位置する The Eye of the Heron を比べると、やはりラズと荒野の関係が、解き明かされることなくしっかりと結びついており、まさに 76年版での「女性原理はアナーキーなものである」とのル・グィンの見解を証明していると思われる。

 しかし、後にル・グィン自身が否定する要素があるとはいえ、The Eye of the Heron は、60年代の Planet of Exile と比較するなら、文化集団の中での女性の他者性、エイリアン性に耳を傾け、それに寄り添っているのは明らかである。そしてリングツリーの中心にできた池に住むアオサギに似て、飼いならされることを拒否し自由になろうと試みる少女が描かれるこの作品は、ル・グィンが、より肯定的で可能性に満ちた女性を創造する端緒になったといえるのである。

            注

1. 第5部 The Other Wind が2001年に刊行予定という。

2. Revisoned  では、"the only way to have one's writing perceived as above politics, as universally human, was to gender one's writing male." と自らふりかえっている。

3. 男性と思われていた作家が、実は女性であることがわかった事件。


            引用文献

Hulme, Peter. Colonial Encounters. London: routledge, 1986.

小谷真理「コヨーテと踊れ」『SFマガジン』vol. 38 No. 7 1997 July.

LeGuin, Ursula K., Planet of Exile. 1966, Rpt. as Five Complete Novels. New York: Avenel, 1958.

... "A Citizen of Mondath" 1973. The Language of the Night. Revised Ed. NY: Harper Collins, 1989.

..., "American SF and The Other" 1975. The Language of the Night, Revised Ed. NY: Harper Collins, 1989.

..., "Is Gender Necessary? Redux" 1988. The Language of the Night. Revised Ed. NY: Harper Collins, 1989.

..., The Eye of the Heron, 1978. NY: Harper Collins, 1995.

..., Earthsea Revisioned. Cambridge: Green Bay, 1993.
正木恒夫『植民地幻想』みすず書房、1995.

Ortner, Sherry B., "Is Female to male as Nature Is to Culture?" Woman, Culture, and Society. Ed. Michelle Zimbalist Rosaldo and Louise Lamphere, California: Stanford University, 1974.

杉田敦『権力』岩波書店、2000.

上野千鶴子『上野千鶴子が文学を社会学する』朝日新聞社、2000.

 


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Last updated: Friday March 30, 2001

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