The Beginning Place における相互連関性 ――2人の主人公・2つの世界・2つの文学様式

織田 まゆみ


                                 T

  Ursula K. LeGuin(1929−)は、デビューが遅かったことも あって、「習作と呼ぶしかない作品」がほとんどなく、初期の Rocannon's World (1966)、The Planet of Excile (1966)、City of Illusion (1967) で一定の評価をあげるとすぐ、69年の The Left Hand of Darkness と、68年から72年にかけての Earthsea 3部作 で、SFとファンタジー双方の名声を確立した。したがって、彼女の いう "You must either fit a category or 'have a name,' to publish a book in America."(Night 23) によるのなら、彼女自身は早々と 後者になったといえよう。

  こういうわけで、ルグィンは70年代から、様々なスタイルを試み た作品を発表していくが、ヤング・アダルトを対象としたものにつ いてもそのことはあてはまろう。前述した Earthsea 3部作が、 ハイファンタジー、76年の Very Far Away from Anywhere Else (イギリス版の題名は A Very Long Way from Anywhere Else)は、 「問題小説」の範疇にはいるリアリズム小説、辺境の植民惑星にうま れた少女の成長を描いた The Eye of the Heron (1978) はSF、そし て、今回とりあげる The Beginning Place (1980) は、ファンタジー とリアリズムが、互いに越境しあった作品、2つの文学様式をもつ 作品とでもいえるのではないだろうか。

  また The Beginning Place は、主題に関して Very Far Away from Anywhere Else を踏襲している。両者とも、いかに親の支配か らぬけだして成熟するか、その精神的自立の闘いがテーマである。 先行のVery Far Away from Anywhere Else は、Owen (オーウェ ン)という頭が大変いい男の子の一人称語りで、いつもみんなと違 うことに疎外感を感じていた上、人の気持にあまりにも敏感である ために親やクラスメイトのもつ「普通さ」に呑み込まれかかり、な かば人生をあきらめていた彼が、作曲家になるという決意のもと、 努力を続けているNatalie (ナタリー)と出会うことで、他人と違う ことを受容し、自分がやってみたい学問分野のある大学進学を親に 主張するまでを描いた作品である。親とどのように対応するのか、 自分を全面的に受容してくれた大切な親友であり恋人であるナタ リーとどう付き合うのかといった、自分の欲求・欲望と、人のそれ らをどう調整するかという、現実的で実際的な問題提起がなされて いる。ただひとつ、オーウェンが Thorn (ソーン)という空想の国 をつくって、現実逃避していたことが大変印象深い。

  The Beginning Place は、この Very Far Away from Anywhere Else での設定をより深めたといえる。つまりオーウェンとナタリー は、Hugh (ヒュー)と Irene (アイリーン)に引き継がれるのだが、 この2人は、才能があるオーウェンやナタリーと比べるとごく普通 のティーンエージャーであるものの、彼らが抱える両親との確執は、オーウェンと ナタリーのそれらより、より深刻なものになっている。したがって、 オーウェンが逃避した空想の国ソーンは、The Beginning Place で は Twilight land (薄暮の国) ということになるのだが、どういう国 にするか想像することが楽しめたソーンと違って、ヒューとアイ リーンは、薄暮の国に深く入り込み、試練を乗り越えて、現実世界 に生還しなくてはならないのである。

  ルグィンは、"Introduction to Planet of Exile 1978" で、"Once I was asked what I thought the central, constant theme of my work was, and I said spontaneously, 'Marriage'." (Night 139) と 述べているが、この自己と他者の相互関係こそ、彼女の一貫した関 心事だろう。Very Far Away from Anywhere ElseThe Beginning Place も、象徴的な面だけでなく、文字どおりの恋愛を扱っ て、彼女のテーマを明確にしている。しかも、ハイファンタジー である Earthsea シリーズが、外的な旅である冒険と内的な心の旅 をぴったりと連続させていたのに対し、The Beginning Place の ファンタジー要素は、前者より後者を強調し、その深化を試みてい る。また、Very Far Away from Anywhere Else が、オーウェンの a boy meets a girl 物語であるのに対し、The Beginning Place は、 それに、a girl meets a boy 物語も加え、男女2人の声をできるだ け均等に表現しようと試みたように思える。 したがって、The Beginning Place は、2人の主人公、2つの世界、2つの文学様式という 構成と、互いの相互連関が絡み合って、複雑な物語世界が構築され ているといえるだろう。

  本稿では、その絡み合いを、現実世界、薄暮の世界の中でそれぞ れ追求し、最後に、2人の主人公、2つの世界、2つの文学様式の 結びつきについて考察していきたいと思う。

                               U

  現実世界の2人、ヒューとアイリーンは、年齢が20と21、金髪で 大柄な男性と、黒い髪で黒い目の女性である。ヒューは最近越して きたばかりだが、2人とも郊外の住宅団地、道路ができて人が移り 住んだため、昔ながらの農家が取り残されたようになっている土地 にすんでいる。また2人とも、ダウンタウンに住んでみたいと思っ ているのだが、彼らの事情がそれを阻んでいる。その事情とは、彼 らの母親のことである。ヒューは、母の支配からぬけだせなくて、 そしてアイリーンは、母が心配で出ていけないのである。

  ヒューの父は、彼が13の時、家をでていってしまった。

"You know, Hughie, I have a lot of confidence in you. You know that? I can count on you. You're steadier than a lot of grown men I knew. You keep that way. Your mom's got to have somebody to depend on. She can depend on you. It means a lot to me, knowing that." (Beginning 81-82)
ヒューにこのように告げた翌日、彼は「この辺で別れるのが潮どき」 という書き置きを残して出奔してしまう。母は精神不安定になり、 ヒューが学校に行こうとすると、泣きわめいて家にいてくれるよう 懇願する。しかし、仕方なく彼がそばにいても、彼女はうれしそう な顔をするわけでもなかった。最初の引越しの後、母は職につき、 7年間で13回引越しをしたが、彼女はいまだに、一人で家にいるこ とも、夜無人の家に帰ってくることもできない。ヒューは、彼女を なだめ、守り、大学の図書館学科で学びたい希望を断念して、母の 帰宅前に帰ることのできるスーパーのレジ係をしている。彼女の神 経発作が起きないよう、ずっと彼女の機嫌を伺う生活をしているの である。

  しかし、母はヒューの犠牲を当然のように振る舞っている。それは あたかも、ヒューがその父の代理として、贖罪を要求されているよう でもある。His name, his father's name (238)と、物語の最後の方 で明かされる、ヒューが父と同じ名であることに加え、彼が成長して 父に似てくることが、母にとっては我慢ができなっている様子は次の ヒューの思いからも明らかである。

He said,... tryning to make his voice soft, neutral, neuter; for his big feet and thick fingers, his heavy, sexual body that she couldn't stand, that drove her to the edge. (Beginning 18)
しかし、それでも彼女は彼を捉え、支配したまま放そうとはしない。 一方ヒューは、とても小さくて痩せている彼女に肩をたたくとか、髪 にキスするとかしてやりたいという優しい気持をもつこともあるのだ が、母は触れられるのをいやがり、ヒューの気持は、感謝で報われる ことはないのである。

  以上、ヒューと母親の関係を概観したが、ヒューは明らかに、機 能不全家族のもとで育った、アダルト・チルドレンであろう。斎藤 学は、機能不全家族を、「全体主義国家や宗教的カルトのように個々 の家族成員を拘束して、一定のルールのもとでの生活を強制し、個々 人のプライバシーを軽視します。その被害をとくに受けるのが子ども たちで、親たちから有形無形に侵入され、家のルールに自ら進んで拘 束される「良い子」になりがちです」(100)と記しているが、母の 精神的不安定が暴力となってヒューを「自ら進んで拘束」させている のである。ヒューは、母に対して言い訳をしたり嘘をつくことに、非 常な罪悪感を感じる自己処罰傾向もある。

  しかも、ヒューにそばにいてほしいが、そばにいたからといって 機嫌がよくなるわけでもないといった母親の態度は、あきらかにダ ブル・バインド状態といえよう。互いに排他的であるメッセージに さらされていて、しかもその場を離れることもできないといった状 況は、自分が、自分自身の感情をもった個であることを放棄させら れ、一種の「死」を要求されているといってよいだろう。ヒューは、 完全に母に呑み込まれかかっているのである。

  一方、アイリーンの父は、彼女の弟の誕生後、白血病で死んでい る。20代になったばかりで未亡人になった母は、叔母から農場を 受け継ぐが、じきVictor(ビクター)が同居、彼らは結婚する。ビク ターは、自分に自信をもつ、自己中心的な義父である。彼は次のよ うに言う。

"If the man doesn't get rid of the fertile material, you understand what I mean, the fertile cells, they back up and cause the prostrate gland. That material has to be cleared out regularly or they make poison,..." (Beginning 97)
しかし、この自分の体に関する「考察」は、性のパートナー である妻に対しては皆無なのである。それどころか、自分の分泌腺 を優先して、ピルを禁止しているので、アイリーンの母は、彼との 間に、4度の出産と3度の流産を経験しなくてはならなかった。さら に、盗品売買、麻薬取引にも手をだしており、妻をなぐり、そし て、アイリーンをレイプしようとするなど、人間として下等とし かいいようがない男なのである。

  ところが、母は夫に忠実で、彼にまったく隷属している。男だか ら、結婚しているから、というのがその理由である。 そして、Once you know what it's like, like that, once you felt that, nothing else makes so very much difference (101-102) と、人生に対する 緩慢な諦念を表明する。アイリーンは、義父にレイプされそうにな ったことを母にいいたいが、彼女が信じている「家庭の幸せ」のこ とを考えるととても言えない。母が多分、自分の味方になってくれ るだろう、ということは予想がつくが、そうなれば、ビクターに暴 力の口実を与えることになるだろう。したがって、アイリーンは、 母に自分の恐怖をわかって欲しい、自分を守ってほしいという気持 ちが強いにもかかわらず、その恐怖を母に語ることはできないとい う二律背反に陥らざるを得ないのである。 この引き裂かれるよう な気持のため、Nancy Friday が示す次のような心理状態が形成さ れる。

We want both to separate from mother and not to separate. As long as we stay attached to her, we remain her little girl―safe―but immature. What keeps us attached? "Guilt!" says Dr. Schaefer. (166)
したがって、アイリーンは2年前に独立したのに、いまだに母の家 から遠く離れることができないのである。 加えて、小さいときは仲間だったのに、思春期になると女一般を ばかにし始め、さっさと母を捨てて家をでた弟に対して、あるいは 友人をレイプした男たちに対しての怒りと恐怖が、卑劣な義父への それらと重なって、異性である男性一般に対する不信へとつながっ ていく。母への思いやりと哀れみの背後にも、静かではあるがあき らかに怒りがある。

  以上、現実世界のヒューとアイリーンをみてきたが、彼ら2人と も、ふがいない同性の年長者と、生存の危機をまねく悪しき異性モ デルしかいない環境にいる。つまり、ヒューにとって、前者は家族 を捨てた父、後者は母であり、アイリーンにとって、前者は愚かな 母、後者は義父であろう。しかも、2人の母は、対照的でありなが ら、どちらも「家庭」にとらわれている。ヒューの母は、"The place she couldn't get away from was home, the more she left it the worse she was stuck"(81) とヒューに評されるし、アイリーン の母は、"all the glory can happen and be done with by the age of twenty-two, and one can live for twenty, thirty, fifty years after that, work and marry and bear children and the rest, without any particular reason to do so, without desire."(102) という、 寒々とした思いをアイリーンに感じさせている。

  さらに、ヒューの母の夫への怒り、家から逃げたいのに縛られてい る様子は、アイリーンの男への怒り、家から逃げたいのに縛られ ている様子と酷似している。そして、アイリーンの母が、諦観から、 夫の支配下に生きている様は、ヒューが母の支配のもと、自分の欲 求すら忘れかかっている様子と相関しているのである。したがっ て、2人の課題とは、怒りを解くこと(アイリーン)と、目を覚ま すこと(ヒュー)であるが、それはまた、互いの母親の課題ともい えるのである。

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  次に、薄暮の国におけるアイリーンとヒューを考えてみたい。こ の世界に、アイリーンは13歳の時から、ヒューは、ある夜、発作的 に家から逃げ出してしまって入り込む。いつもたそがれていて、太 陽も月もなく、音もない、しかも時がゆっくりと流れる世界である。 入り口近くの川のほとりの the begnning place (始まりの場所)をす ぎ、うっそうとした森を歩み、3つの川をこえ、けわしい道を歩い ていくと、山の町 Tembreabrezi (テンブレアブレジ) に到達するこ とができる。アイリーンは14歳の時、疲れ果ててやってきたの が最初だが、その時から旅篭の夫婦に、"come in, child, come home" (44)と、「子ども」として暖かく迎えられている。そして、ここでは アイリーンではなく、母がつけた愛称 Irena (イレーナ)と呼ばれ、 今では、薄暮の国のことばもわかるようになっているのである。

  さて、この薄暮の国は、無意識の世界と考えてよいのではないだ ろうか。薄暮というのは、強い日の光のある昼と光のない夜の間、 なにもかもぼんやりとみせる幻想的な時間だ。影のない世界と いってもいいだろう。ヒューとアイリーンがこの世界のなかで、最 初に経験することは、川のほとりで水を飲み、眠ることである。こ の世界はまず、現実から逃避できる休息の場なのである。

she dropped down on all fours and kissed the dirt, pressing her face against it like a suckling baby.... "So you are, so I am, so." She sat down crosslegged on the shelving rock, sat still, shut her eyes to contain her joy. (Beginning 40)
上記は、久しぶりに薄暮の世界に入ることのできたアイリーンの喜 びの様子である。彼女はこの地を、the ain country (わが故郷)と よんでいる。一方、ヒューもこの世界を訪れることが生活の中心と なり、うそをついてでも意志を通したいと思うようになる。彼はア イリーンに、侵入者として罵られるが、"I need to come back."(72) とつぶやく。そして、"This is my home," he said to the earth and rocks and trees, and with his lips almost on the water, whispered, "I am you. I am you." (74) と、薄暮の国が自分にとっ ていかに大切なものであるかを示すのである。ヒューもアイリーン も、静かな自然のなかで、五感を存分に用い、他人の目を気にする ことなく、完璧な心のやすらぎに浸ることができたのだ。

  しかし、ヒューが薄暮の国で過ごすことで、現実世界で少しづつ 自分を主張し始めるの対し、アイリーンはヒューに反発、薄暮の国 が変化したことを感じる。 "this time,... she felt the circle broken. It was no longer safe. Though she might wish it, and they might wish it, she was not a child any more."(48) と自分がもう 何も知らない子どものふりはできないこと、そして、テンブレアブ レジに何かがおきていて、それがヒューの出現と関係があることに 気づく。しかし、何事もないようにふるまう人々の態度は、アイ リーンの母が「万事順調よ」と言うのと同様、虚偽の匂いがして、 もはや薄暮の国にも居場所がないと感じるのである。

  このアイリーンの変化は、薄暮の国の入り口が彼女に対して2年 前から開かなくなったことと関連があろう。2年前といえば、彼女 が家をでた時であり、一応義父の力から逃げることができた時と いってよいだろう。つまり客観的には、薄暮の国で癒される必要 性が、前ほどなくなった時といってよい。しかし、相変わらず彼 女は薄暮の国にしがみついていたわけだが、疎外感をもったこの 時、彼女自身、次の段階に進まねばならないことを納得したので ある。ところが、反対にヒューは、薄暮の国に入りやすいが、出 ることが難しいという特徴をもっている。これは、彼が現実的な 危機の只中にいること、そして、薄暮の国に逃避するだけでなく、 埋没しきってしまう危険性を表わしていると思われる。彼ら2人が いっしょにいる時は、薄暮の国に入ることも出ることも容易なの である。

  薄暮の国が無意識の世界とすれば、ここに住む人々は元型的な人 物と考えてよいのかもしれない。確かに、痩せた白髪の領主 Horn (ホーン),金髪で色白の領主の娘 Allia (アライア)、そして黒髪で 浅黒い肌の首長 Sark (サルク)は、Brian Attebery が述べるよう に "a wise old man, a blonde princess, and a dark traitor."(238) と思われる。しかし、アイリーンがサルクに、ヒューがアライアに一 目みた時から恋するように、彼らは、理想化された異性を示してもい る。サルクはアイリーンの記憶に残っていない父であり、アライ アは、こうだったらと思うヒューの母でもあろう。だが、サルク とアイリーン、アライアとヒューの容貌の類似に注目すると、サルク はアイリーンの、アライアはヒューの「影」ではないかと思われる。 つまり、アニムスとアニマである。したがって、彼らの「恋」は自 己愛といってもよく、現実世界で自分を殺している彼らにとって大 切な要素の自己肯定であるが、同時に、"to restrict one's love to the animus or anima is to deny the existence of the true Other and to retreat into narcissism."(Susan Mclean 135) とも いえるのである。

  したがって現実から離れて休息し、そして自分を愛することを学 んだ彼らは、次の段階に進まなくてはならない。それは、テンブレ アブレジの人々が恐怖のため、対処できないあるものに、この国で は Hiuradjas (ヒューラジャ)と呼ばれるヒューは剣をもち、アイ リーンは案内役として 1 対峙することである。この恐怖は詳しく 説明されることはないが、サルクの曽祖父が、娘を取引につかっ たことの批判が、ホーンによってなされることから推測すると、 以前の対応は、子どものいけにえであったらしいが、今回は、恐 怖と向かい合うことが勧められるのである。ホーンこそが、いわ ば子宮的空間から外界へと押し出す導き手といえるだろう。そし て、彼はその恐怖を "The eye that sees gives form; the mind that knows, names." (168) という。

  ヒューがアライアのために、そしてテンブレアブレジの人に役 立つことに内心喜びをもって、アイリーンがサルクへの幻滅と ヒューへの同情から、対決しようとする恐怖は次のような形を与 えられている。

The voice beat all thought from the mind, louder yet, horrible and desolate, enormous, craving ... it came and passed, white, wrinkled, twice a man's height, dragging its bulk painfully and with terrible quickness, round mouth open in hissing howl of hunger and insatiable pain,and blind. (Beginning 196)
彼らはこの怪物から一度は逃げ出すものの、ヒューは、今回も逃げ てしまった自分への嫌悪と、死の誘いから、怪物の住む洞窟へと歩 く。一人だけ逃げるようにいわれたアイリーンはヒューを説得でき ず、結局彼についていくことになるが、その洞窟の前にくると、思 わず彼を押しのけ、かぼそい声で "Come out! Come out!"(208) と叫んだのである。でてきた怪物にヒューは剣で切りかかったが、 怪物は倒れてきて彼を押しつぶす。アイリーンは泣きながら、 弱りきり、冷たくなった彼を怪物の下から引きずり出し、介抱しな がら出口に向かうのである。このように、怪物を倒すことと生還す る過程において、2人の役割は、英雄と案内人に単純に 分割はされない。ここでしめされるのは、薄暮の国の出入りと同様、 2人のどちらもが、互いに必要であるということである。

  それでは、この怪物とは何なのだろうか。アイリーンは死 骸を次のように見る。

Human arms, a woman's arms, and those were breasts, pointed like a sow's teats, between the arms and lower down the belly, there where, as the pulsing spasm of the body went on, the wound was brought into view again, and again, and again, and the grip of the sword protruding from the wound.           (Beginning 211)
しかし、アイリーンが思わず、怪物を she とよんだのに対し、 ヒューは、"No, it was? The reason I had to kill it?" (220) とい う。これは、ヒューにとってその怪物は男だったということを意味 する。ホーンが告げた「見る目が形を与える」ということばにそっ て考えるのなら、アイリーンにとっては、ヒューを支配する母の怪 物性、ヒューにとっては、アイリーンを脅えさせる男の暴力が見え、 それらを、2人が協力しあって切って捨てたということになるだろ う。つまり、サルクの曽祖父がやったことは、アイリーンとヒュー が、これからも親の犠牲になったままの人生を過ごすということ だったのである。したがって、現実世界で母に呑まれかかっている ヒューの方が怪物との対峙で傷を、しかも女をイメージさせるあば ら骨に負うことになるのであろう。

  この闘いのあと、アイリーンとヒューはひたすら出口に向かう。 2人の協力は、いつのまにか愛にかわり彼らは性的にも結ばれる。 この場面があまりにもあっけなく書かれることに、John Updike は 批判的だが(96)、薄暮の国での出来事は象徴的と捉えるべきであ ろろう。サルクはおろか、アライアさえも思い出されもされず、テ ンブレアブレジも完全に忘れられて、彼らは現実的世界での仕事や 大学の話をしたあと、互いにふれあう。それは、人との関係で、防 衛的にならざるをえなかった2人が、成熟をはばむ「怪物」を退治して、 自己愛から抜け出て成熟した個となり、他人への理解と配慮をもち つつ関係がもてるようになった証ではなかろうか。彼らは、やがて 川のほとりの始まりの場所につくが、そこはすでに、終わりの地と なっていた。彼らは手をつないで、現実世界に出てくるのである。

  再び戻ってきた現実世界は、予想に反して雨のふる夜だった。ア イリーンはこれまでなら決してしなかっただろうこと、母のいる農 場に逃げずに、見知らぬ人に助けをもとめ、ヒューを病院に連れて 行く。そして、ヒューは、彼の母が”He doesn't have to come back after this" (255) と言ってスーツケースを投げつけたことを聞いた 時、"It's all right." "Home free" (246)といったばかりではなく、 「お母さんはあなたに戻ってもらいたいのじゃないか」という問い に、"I don't want it" ときっぱりと自分の意志を主張した。彼らは、 わが故郷を、薄暮の国ではなく現実世界につくるために、怪物退治 をした時の服装のまま、新しい出発をする。ここが、彼らの新しい 「始まりの場所」となるのである。

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  さて、これまで主人公の2人が、現実世界から、薄暮の世界へ、 そして再び現実世界にもどる様子をみてきた。彼ら2人は、一見性 格、環境が対照的のようであるが、相互に連関をもっている。前述 したように、逃げた父と、神経過敏な母をもち自分を殺している ヒュー、そして義父に恐怖と嫌悪をもたざるをえないが、それを 母に告げることができない孤独なアイリーンは、相手の「敵」の ように見えた怪物を殺したことで、「親殺し」を行ない、現実を 直視できるようになった。その過程は、出入り口や怪物退治で2人が協力 できないと達成できないことが示されているように、男女各々が交流 のなかで、協力して互いを目覚めさせあうものであった。この点は、 Earthsea 3部作でのテナーの目覚め、2 あるいは、Very Far Away from Anywhere Else でのオーウェンの目覚めのように、受身的な 要素はない。

  また、この相互連関性は2つの世界の間にもある。薄暮の国はま ず、静かで時間がゆっくり流れる癒しの世界としてあらわれるが、 これは、せかせかと時が流れる、名前だけ木や谷がついている住宅 団地という満たされぬ現実の裏返しであろう。そして前にふれた様 に、テンブレアブレジの人々の中には、主人公たちの影をあらわす 人物がいることや、人々の恐怖に子どもが生け贄になったことが主 人公たちの状況をあらわし、さらに怪物の声や姿は、現実世界での 親と思われることを考えると、現実世界と薄暮の国は、強く影響関 係にあるといえる。また、薄暮の国で、王とも国母がいるともいわ れているCity と現実世界のダウンタウンも互いに関連があると思 われる。このように、2つの世界は相互連関していて、現実と夢、 あるいは空想ときっちり分割できないのである。

  そして、これらの相互連関の複雑さが、実は作品の印象をぼんや りさせていることも事実だろう。2つの世界が相互に関っているか らこそ、読者は現実世界を見るリアリスティックまなざしを、どう しても薄暮の国に対してもむけてしまう。怪物が倒された後、テン ブレアブレジの人々はどうなったのだろうか、あるいは、薄暮の国 の王、あるいは国母ともよばれるものは何だったのだろうかといっ た疑問がわくのは、薄暮の国が現実世界と切り離された単なるお話 ではないことを、この作品自体が主張しているからに他ならない。 したがって、Sheiila A. Egoff の次のような批判がでてくるのは 当然であろう。

Its strength and chief interest lie in its portrayal of a slice of reality (the fantasy of reality), and the fantasy component is used to bring about a change in the minds of the protagonists (psycho-fantasy). However, in its lack of a clear delineation of the fantasy world (the reader can believe only that such a lack was deliberate on the part of the creator of Earthsea), this novel shows a shift in purpose. (296)
上記の判断にたって、彼女は、この作品では、異世界を単に現実の 副次物としてしか考えていないと批判するのである。

  しかし、イーゴフも言っているように、そのことが単なる失敗と か、未完成さではなく、ルグィンの「熟慮」の結果だとした ら、この作品をファンタジーとのみ捉えて、その立場からの批判に 留まることは許されないのではないだろうか。

  Attebery も、 テンブレアブレジの問題の解釈と一致されること なく、ヒューとアイリーンの成熟が達成されることに不満をもって いるが、同時に "The Biginning Place works better as metafantasy, or commentary on fantasy, than as fantasy tale." (242) と述べている。この考えをさらに推し進めているのが Charlotte Spivack だろう。彼女は、この作品のエピグラフ、J. L. Borges の "Oué r&iacuteo es &eacutesta por el cual corre el Ganges?” (What river is it through which the Ganges flows?)に注目して、神聖な川という 考え方が、ガンジスの文字通りの波の流れを通して形而上学的な川 床を提供すると述べたうえで、"Similarly in this novel the idea of the quest for a new beginning provides the conceptual passage through which the adventure in the two worlds work their way." (118) と評している。しかし彼女も、"Both rereading and further are required for the reader to learn what river it is through which the Ganges flows."(124) と結論づけながらも、歯 切れが悪いとか、理解するのが難しいといわざるをえないのであ る。

  では、この不可解さ、あいまいさはどうして生じるのだろうか。 エッセイ "The Child and the Shadow" での、ルグィンの次の主張 にヒントがあるように思われる。

  It seems to me that the way you can speak absolutely honestly and factually to children about good and evil is to talk about the self the inner, the deepest self. That is something children can and do cope with; indeed, our job in growing up is to become ourselves. What we need to grow up is reality, the wholeness which exceeds human virture and vice. We need to see ourselves and the shadows we cast. For we can face our own shadow; we can learn to control it and to be guided by it                                  (Night 66)
ここには、The Beginning Place を書いた動機がはっきりと示され ている。つまり The Beginning Place でのファンタジーとは、内な る自己の言葉なのである。子どもが親からどう離れていくか、どの ような過程を通って、出会った男女がお互いに必要な存在となって いくか、人によっては瞬間的におこる一連の内的・外的変化を、ル グィンは、薄暮の国にHugh と Irena 、つまり You と I (Mclean 138)を送り込むことで、ゆっくりと解明してみせたのである。

  したがって、The Beginning Place が、2人の主人公、2つの世 界、2つの文学様式をもっているのは、内的な世界をもったわれわ れが、現実、つまり外的な世界の中で、互いに連関しながら、互 いを連関させて、生きているからにほかならないからではないだろ うか。つまり、怪物を退治した後、彼らがテンブレアブレジを思い 出しもしないのは、決心がついたこと、決定がなされたことを意味 するのではないかと思われる。迷いは払拭されたのである。そして、 現実世界で、ダウンタウンに向かう彼らこそ、実は薄暮の国の City に住むという王と国母なのかもしれないのである。

  つまり、The Beginning Place は、人間の内的世界と外的世界のダイナ ミックな絡み合いと、そしてそのような人間と人間相互の幾重にも 絡み合った交流を、薄暮の国の内的な言葉と、現実世界の会話や行 動などの外的な言葉とで描いてみせた作品なのである。


                                注

1 一見ヒューはテーセウス、アイリーンはアリアドネのように思える が、 the ox led to slaughter (176) と描写されているヒューには、退治 されるべき怪物ミーノータウルスのイメージもあるし、当初アイリーン が「私をいかせて」とテーセウスになりたがったことも考えると、神話を、そのまま転用したのではないと思われる。
2 Earthsea シリーズ2巻目 The Tombs of Atuan (1971) の Tenar のことである。

                                引用文献

Attebery, Brian. "The Beginning Place: Le Guin's Metafantasy." Ursula K. LeGuin. Ed. Harold Bloom. New York: Chelsea House, 1986.

Egoff, Sheila A., World Within. Chicago: American Library Association, 1988.

Friday, Nancy. My Mother My Self. 1977. New York: Delta, 1997.

LeGuin, Ursula K. The Beginning Place. 1980. New York: Harper Collins, 1991.

----. The Language of The Night. 1979. New York: Harper Collins, 1992.

McLean, Susan. "The Beginning Place: An Interpretation." Extrapolation Vol. 24 (1983): 130-142.

斉藤学 『アダルト・チルドレンと家族』 学陽書房 1996.

Spivack, Charlotte. Ursula K. Le Guin. Boston: Twayne, 1984.

Updike, John. The New Yorker. June 23, 1980.

大学院学生 (1999)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Monday, April 9, 2001

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