野生への憧憬――The Maine Wood
めぐって


木下 恭子


 ヘンリ−・デ−ヴィッド・ソロ−(Henry David Thoreau, 1817-1862) は、アメリカン・ネイチャ−ライティングの創始者であり、自然保護運動の先駆者である。The Maine Woods (1864) は、Thoreau がアメリカ東部メイン州の最も生の原自然に接触した体験を文学に結晶させていった作品である。本稿では、人間を寄せつけない、荒涼とした自然風景が広がるメイン州と人間と自然が調和を保つコンコ−ドを対比させ、Thoreau が見出だした真の野性について検証し、さらに、生地コンコ−ドに密着して自然観察を続けた意義についても考察を試みたいと思う。

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 Thoreau は、コンコ−ドから生涯離れることはなかったが、メイン州へは地理的に近かったことと従兄弟の George Thatcher がいたという理由から、三回ほど旅行をしている。コンコ−ドよりも自然がそのままの姿で保たれているメイン州は、自然について詳細な知識を得たいと考える Thoreau にとって、格好の観察対象となった。代表作 Walden では自然を見つめ自然と対話するため、Thoreau はウォ−デン湖のそばに自ら小屋を建てて生活を営んだ。簡素な生活を実践することで詳細な自然観察にいそしんだ Thoreau が、野性に満ちた自然と対峙するため、ウォ−ルデン湖畔での生活が一年経過した後、1846年8月末にメイン州の奥地へ探険の旅に出かけることにしたのは当然の選択であるように思える。なぜなら、Thoreau は人の踏み込まない森や沼地を探険することで得られる、自分を精神的に鼓舞してくれる野性の強壮剤の必要性を感じたからである。

  Our village life would stagnate if it were not for the unexplored forests and meadows which surround it. We need the tonic of wildness,... we require that all things be mysterious and unexplorable, that land and sea be infinitely wild, unsurveyed and unfathomed by us because unfathomable.(1)

 メイン州での移動手段は、カヌ−とボ−トを折衷した川舟か足元の不安定な山道を徒歩という自然の天候に左右される過酷な状況下で、Thoreau は未知で謎に包まれた自然の魅惑を探求する。“that pleasant wilderness which we were so eager to become acquainted with" (2) と、Thoreau のウィルダネスへの想いは未知なるものへの憧憬となる。Roderick Nash はウィルダネスが人にとって必要な自由と孤独を提供し、本質と向き合うことのできる場所であると考え、ウィルダネスへ行く価値を評価して、次のように述べている。

 But going to the outward, physical wilderness was highly conductive to an inward  journey. Wild country offered the necessary freedom and solitude.  Moreover, it offered life stripped down to essentials.(3)

ウォ−ルデン湖畔での生活にも慣れ、Thoreau はそこでの生活から少し離れてみたいという願望を持ったのだと思われる。Thoreau のアメリカ大陸に広がる野性への関心は、彼を豊かな生命層を持つ森が広がるメイン州へ駆り立てた。

 Thoreau は野性についてどのように考えていたのだろうか。Waldenで、Thoreau は道を横切った野性的なウッドチャックに心を奪われ、思わず食べてみたい誘惑に駆られた。ウッドチャックとの遭遇により、人間の内面にはより高尚で精神的な生活を志向する本能、つまり人間には思慮的に行動したり、善悪を識別できる能力がある一方で、動物的本能が存在することを Thoreau は認識する。そして、Thoreau は“I love the wild not less than the good."(W, 210) と自然から精神の象徴を見出だす純粋性をもちながらも、野性を賛美する姿勢をもっている。Roderick Nash は、“Thoreau grounded his argument on the idea that wildness was the source of vigor, inspiration, and strength.... lost contact with wildness it became weak and dull." (4) とThoreau の心性の根底には活力、インスピレ−ション、強靭さの源である野性との接触の重要性が根差していたと指摘する。ブナ、キハダカンバ、ストロ−ブ松の森林を眺めたり、自然の様々な姿を鋭敏に感受することで、Thoreau は野性的な自然に魅了される。また、野性は“redeem themselves"(W, 205) と自分自身を取り戻す場所だとする Thoreau は、豊かな緑と深窓の森に守られたメイン州の奥地へ探険の旅に出る。

 Walden では自然の多様な動きを観察することで、自然の中に真実をとらえたり、無垢な心を取り戻している Thoreau が、メイン州の奥地でウィルダネスと直面することで、Thoreau の精神は豊かさを増し、彼の視点に鋭さを生み出すのだろう。詩人は美を求めて、ウィルダネスを旅する必然性があったのだ。

  not only for strength, but beauty, the poet must, from time to time, travel  the logger's path and the Indian's trail to drink at some new and more  bracing fountain of the Muses, far in the recesses of the wilderness. (MW, 156)

時々は刺激を受ける体験を求めてウィルダネスに行くことは、新たな詩神の泉を飲むために価値がある。Richard Schneider は、“a new natural environment seemed helpful, perhaps even necessary, in making new discoveries and in keeping the inner person ever new." (5) と新しい発見をしたり、清新な精神状態を保つには、新鮮な驚きを与えてくれる自然環境が必要だと指摘している。自己を再認識するための道標となる、ウィルダネスを旅することはすばらしいことだといえよう。   

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 Thoreau はクタ−ドン山についてどの程度の知識をもっていたのだろうか。 “Ktaadn,whose name is an Indian word signifying highest land"(MW, 3) と、ネイティブ・アメリカンの言葉でクタ−ドン山の「クタ−ドン」とは「最も高い土地」を意味し、メイン州の最高点で、標高 1580メ−トルのニュ−イングランドで最も険しい花崗岩の山だ。

Thoreau が過去の登山者の体験記を参考にしていたことは、“first ascended by white men in 1804. It was visited by Professor J.W.Bailey of West Point in 1836,... All these have given accounts of their expeditions."(MW, 3-4) と述べられていることから明らかであり、クタ−ドン山について少しは予備知識をもっていたと思われる。しかしながら、過去に四人しか登っていないクタ−ドン山は未知の部分に包まれていて、Thoreau の探求心を刺激する。“There stood Ktaadn with distinct and cloudless outline in the moonlight; and the rippling of the rapids was the only sound to break the stillness."(MW, 55) と、早瀬の小波の音しか聞こえない静寂な時の中で、月光に照らされたクタ−ドン山は雲一つない鮮明な輪郭の美しい姿を見せていた。Thoreau はクタ−ドン山にどのような印象を抱いたのだろうか。岩と岩が互いにもたれあったクタ−ドン山は、岩の巨大な集合体のようなものだ。それらの岩は天の石切り場から落ちてきた惑星の原料であり、クタ−ドン山は地球上で最も人の手の加えられていない場所である。

 James McIntosh は、メイン州の自然に心地よさと同時に凶暴な面があるのは明瞭であり、クタ−ドン山で Thoreau が人間の支配を許さない野性と直面したと次のように指摘している。

  In "Ktaadn", Thoreau goes out of his way to enter an intractable wilderness and affirm a more difficult nature than he normally meets. Nature in Maine is conspicuously hostile, as well as kindly.(6)

 クタ−ドン山の頂は "among the unfinished part of the globe,... Pomola is always angry with those who climb to the summit of Ktaadn." (MW, 65) であり、山へ登ることは神々の秘密を覗き込むことを意味し、地球の未完成な部分の一つとして山々の頂は存在する。神々が宿る山の頂へ行くことは、他の同行者に疲労の色が見られた理由で Thoreau は断念し、頂上の真下の台地までかろうじて登ることができた。The Maine Woodsで最も衝撃的な場面は、クタ−ドン山を下山する途中で原始の自然風景と対峙する所だ。森の中からむき出しの岩の大部分がそびえ立つ、広大で巨人的な山に、Thoreau は圧倒されると同時に地上で人間よりも自然が優位に立つ場所があることを実感する。野性は自然の精髄だと解釈する Thoreau はクタ−ドン山を下りながら、そこが "primeval, untamed, and forever untameable Nature"(MW, 69) と原始の野性そのものの土地であると確信する。巨大で荒涼として非情な自然こそ純粋な自然であると、Thoreau は野性的自然について次のように語る。                            

  And yet we have not seen pure Nature, unless we have seen her thus vast, and drear, and inhuman, though in the midst of cities. Nature was here  something savage and awful, though beautiful. I looked with awe at the ground I trod on, to see what the Powers had made there, the form and fashion and material of their work. (MW, 70)

自然は美しさとともに野蛮で恐ろしさを備え、畏怖の念をもって神々の創りだした大地をThoreauは見つめる。焼け地は“It was Matter, vast, terrific, - not his Mother Earth that we have heard of,... It was a place for heathenism and superstitious rites, - to be inhabited by men nearer of kin to the rocks and to wild animals than we."(MW, 70-71) と人の手の全く加えられていない、地球という天然のままの表面で、巨大で恐ろしい物質で、人間よりも岩や野生動物が住むのにふさわしい場所だと Thoreau はみなしているのだ。

 Roderick Nash は“It seemed as if he were robbed of his capacity for thought and transcedence,"(7) と、コンコ−ドとは異質のクタ−ドン山や焼け地の荒涼とした自然の姿を見ることで、Thoreau は自らの思考能力や超越主義的な観念が通用しないと悟ったと指摘する。Thoreau はメイン州における真の自然の姿を知覚するのだ。クタ−ドン山は人間の心のよりどころとなるような場所ではなかった。超越主義的な観念の揺らぎから、Thoreau は自らの存在価値を問いただそうとする。             

  I fear bodies, I tremble to meet them.... Think of our life in nature,-  daily to be shown matter, to come in contact with it, - rocks, trees, wind on our cheeks! the solid earth! the actual world! the common sense!  Contact! Contact! Who are we? where are we? (MW, 71)

 自分が何者であるのか、どこに位置するのか問いただしたくなるほど Thoreau のアイデンティティは衝撃を受ける。Richard Schneider は Thoreau が物質的世界に直面したことで、精神的意味を得たいのに肉体を超越できない恐怖心が生じたと次のように指摘している。

  Confrontation with the otherness of the material world, including the human  body, clearly inspire not only reverence but fear - fear of perhaps being unable to transcend the physical to achieve spiritual meaning.(8)

クタ−ドン山は、人と自然が調和を保つコンコ−ドとは違って、人間が足を踏み入れるのがためらわれるほど野性的な自然が権力を握る場所であり、Thoreau が激しい葛藤を引き起こしたのは、自然の中に精神の象徴があると考えていた Thoreau の超越主義的な自然観を揺るがせたからだ。Thoreau がメインの森で見たものは、自然の残酷な一面であり、Donald Worster が“the most serious challenge to their assertion of cosmic benevo-lence and the ascendancy of divine moral principle in nature."(9) と、自然界で慈悲心と神聖な道徳原理の優位を許さないという事実を指摘する、弱肉強食のダ−ウィニズム的な自然観に基づいた世界である。Thoreau の見出だした真の野性とは、メインの森の人間の支配を許さない、純然たる自然の姿だった。

 自然の掟が支配しているメイン州のウィルダネス、途切れがない森林が広がる野性的な風景は、Thoreau を魅了する。そして、森で暮らすヘラジカ、クマ、トナカイ、オオカミ、ビ−バ−などさまざまな動物たちの姿をThoreauは思い浮かべて、動物たちのたくましい生命力を感じる。ウォ−ルデン湖畔での生活で発見していない自然の別な面をメイン州の旅で見つけることで、“I am reminded by my journey how exceedingly new this country still is.... America is still unsettled and unexplored."(MW, 81) と語り、アメリカには未開発で未踏査の土地がまだ存在し、アメリカを並はずれて新しい国とみなしている。そのため、Thoreau のメインの森に対する探求心は一層かきたてられる。森というものが宿す原初的なものが、Thoreau には魅力的なのだ。Thoreauは新しい発想や価値観の胎動をもたらす森をこよなく愛し、納得がいくまで森を見つめ森と対話したのである。

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 Thoreau は森が狩猟や木の伐採のためでなく、インスピレ−ションを得て、私たち自身の真の再生を得るためのものと認識している。しかし、森の中へ入って行くことで、家の建築用の木材として欠陥のあるもの以外は全て伐採されたストロ−ブ松の木立の無惨な姿を目にする。このような所まで木材を求めて侵入してくる人間に Thoreau は呆れ果て、自然破壊がメインの森でも起こっていることに驚く。Thoreau は“Every creature is better alive than dead"(MW, 121) と語り、切り倒された松は生命力を喪失して、そびえ立つ松とは存在価値が異なると解釈する。Donald Worster は“learn to accomodate himself to the nature order rather than seek to overwhelm and transform it."(10) と Thoreau が自然に対して支配や破壊を試みるよりも、自然との共生を目指した人だと指摘する。メインの森で木々の伐採が進行していることに Thoreau は危惧をいだき、メイン州の大部分が樹木の失われた土地に変貌すると考えている。自然界の生命を滅ぼす人間の愚かさを悟り、保存に重点をおくよう訴える Thoreau の真摯な姿勢から自然保護運動の萌芽が読み取れると思う。

 メインの森を代表する動物、へラジカがネイティブ・アメリカンの狩猟の的になっていることにも、Thoreau は心を痛める。銃という文明の利器を使用して、ネイティブ・アメリカンの Joe Aitteon がヘラジカを倒したことに Thoreau は驚愕する。猟銃を所有する愚かさに気づいていた Thoreau は“sold my gun before I went to the woods"(W, 211) と語り、ウォ−ルデン湖畔での生活を始める前に自ら進んで銃を手放している。少年時代に狩猟をすることは、森に多くの生物が生活を営んでいることを学ぶ上で無駄なことではないが、分別のある大人になったら、生物の生命力を尊重して猟銃は捨てるべきだと Thoreau は語る。

  He goes thither at first as a hunter and fisher, until at last, if he has the seeds of a better life in him, he distinguishes his proper objects, as a poet or naturalist it may be, and leaves the gun and fish-pole behind. (W, 212-213)

Joe が捕らえたヘラジカの皮はぎをする場面は、Thoreau を悲観的な気持ちにさせる。そして、ヘラジカの皮をはぐ状況に立ち合ったことで、Thoreau は“But on more accounts than one I had had enough of moose-hunting. I had not come to the woods for this purpose, nor had I had foreseen it,...The afternoon's tragedy, and my share in it, as it affected the innocence, destroyed the pleasure of my adventure." (MW, 118-119) と語り、ヘラジカ狩りに同行したことを深く苦悩している。人間が欲望を満たすためにヘラジカを殺すことに、Thoreau は強い憤りを感じている。ヘラジカを“God's own horses"(MW, 119) と考える Thoreau にとって、人間が勝手に神の所有物を奪おうとする行為は許しがたいことだった。

 Richard Schneider は、Thoreau の狩猟に対する考えはヘラジカ狩りを契機として変わったと次のように指摘している。                         

  Thoreau's rejection of the life of the solitary hunter as a modern ideal is also greatly influenced by seeing both his Indian guides and his white  companions killing moose.... But in the Maine woods he found wanton  hunting for sport rather than survival.(11)

ヘラジカの皮が必要だったわけでもなく、ただ人間の欲望に左右される狩猟は愚かな行為であると、Thoreau は確信するに至ったのである。Thoreau は孤高の狩人として生きる道を理想とする考えを捨てたのだ。

 Thoreau はネイティブ・アメリカンにメイン州の旅のガイド役を依頼することで、交流を深め、彼らの言葉まで習得しようとしている。自然と密接に結びついた生活を営むネイティブ・アメリカンに  Thoreau はいつ頃から興味があったのだろうか。Richard Schneider が“Recall that Thoreau's interest in Indians dated back to the days when as children he and John played Indians in the woods."(12) と指摘するように、Thoreau のネイティブ・アメリカンに対する興味は、兄ジョンと森でネイティブ・アメリカンの真似をして遊んだ子供時代に遡る。Donald Worster は "Thoreau marveled how free and un-constrained the Indian stood in the forest, an inhabitant and not a guest"(13)と語り、Thoreau は自由で束縛されることもなく、訪問者でなく、住民として森に根をおろすネイティブ・アメリカンに魅了されていたと指摘するように、彼らの実体に接近することが、Thoreau のメイン州への旅の一つの目的だといえよう。知識よりも鋭敏な本能に頼るのがネイティブ・アメリカンの生き方だ。“it was evident that he could go back through the forest wherever he had been during the day."(MW, 251) と、森の中を迷うことなく進み、出発点に戻ってくる驚くべき能力の持ち主、ネイティブ・アメリカンから Thoreau はさまざまなことを吸収しようとした。しかしながら、Thoreau はネイティブ・アメリカンを理想化することなく、彼の研ぎ澄まされた観察眼はメインの森でネイティブ・アメリカンの実像に迫っている。 自然と共存しているかのように見えたネイティブ ・ アメリカンは多くのヘラジカや野生動物を殺す狩人という一面をもち、"What a coarse and imperfect use Indians and hunters make of nature!" (MW, 120) と Thoreau が嘆くように、自己中心的に自然を利用していて彼を幻滅させる。高貴な野蛮人、ネイティブ・アメリカンの自然の威厳を踏みにじるような行為が目につくと、Thoreau は嫌悪するのである。                      

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 活力と生命力に満ちた野性的な自然に引き寄せられてメイン州へ旅立った Thoreau だったが、 クタ−ドン山の荒涼とした姿に出会ったり、 沼地で不安定な足元に苦労しながら歩くことで、 人を寄せつけない真の野性を見出して
きた。Thoreau は今度の旅行で初めて鮮明なクタ−ドン山を眺め、次のように語る。                   

  I got my first clear view of Katadn,on this excursion, from a hill about two miles northwest of Bangor, whither I went for this purpose. After this I was ready to return to Masachusetts. (MW, 151)

人間の足を踏み入れるのを拒否するクタ−ドン山は、遠くから見るくらいが調度いいのである。なぜなら、Richard Schneider が“A view of a mountain in the distance gave Thoreau not only a wide physical view but a wide spiritual view" と指摘しているように、遠方から見る山は自然の全風景だけでなく広範囲にわたる精神的視野を与える効力をもっているからだ。Thoreau はもう二度とクタ−ドン山に登る気持ちはなくなったのだろう。Richard Schneider は、“the sublimity of the wilderness was best viewed as a backfround to civilization, not an alternative to it."(15) と、ウィルダネスの崇高性は文明の背景として見れば最高だが、文明に取って代わるものではないと指摘する。つまり、クタ−ドン山は実際に登山するより、遠くから景色の一部として眺めるくらいの距離間が適度なのである。人間と自然が調和を保つコンコ−ドへ帰ると、Thoreau は安堵するのである。

  Neverthless, it was a relief to get back to our smooth, but still varied landscape. For a permanent residence, it seemed to me that there could be no comparison between this and the wilderness. (MW, 155)

 コンコ−ドの土地はなだらかで、近郊には湖沼、草地、森など変化に富んだ風景が広がる。Richard Schneider は、“On top of Katahdin he finds not a beautiful panorama but an obscure chaos,... Such fears persuade him not to consider the wilderness as a permanent residence."(16) と Thoreau がクタ−ドン山頂で見出だした漠然とした恐怖から、ウィルダネスを永遠の住みかと考えなくなったと指摘している。Roderick Nash は“But contact with real wilderness in Maine affected him far differently than had the idea of wilderness in Concord.... Thoreau felt a greater respect for civilization and realized the necessity of balance."(17) と語り、メインの森で実際にウィルダネスと接触することで、Thoreau のウィルダネスに対する考えは変わり、文明を尊重する気持ちが強くなったと指摘している。メインの森とコンコ−ドの両者を比較することで、メインの森の特異性を認識し、生き物が長い歴史の中で築き上げた生き続けるための掟を知り、Richard Schneider が“a compromise between human society and the wilderness"(18) と語り、人間社会とウィルダネスの間に介在する中間地点と位置づける、温和な中にも多様な自然かあるコンコ−ドの素晴らしさを Thoreau は感じ取ったのだ。

 コンコ−ドで天と地の間に存在するウォ−ルデン湖は、自然の掟が支配権を握るメインの森のような野性を備えていない。しかし、ウォ−ルデン湖は湖水の色の美しさ、純粋性、深さにおいて人々を惹き付ける性質をもっている。Thoreau はウォ−ルデン湖の美しさについて、次のように語る。                           

  In such a day, in September or October, Walden is a perfect forest mirror,... Nothing so fair, so pure, and at the same time so large, as a lake, perchance, lies on the surface of the earth. Sky water. (W, 188)

森林を映し出す鏡であり、純粋で清らかなウォ−ルデン湖は天空の水のようなもので、Thoreau の心を魅了する。“The wilderness is simple, almost to barrenness. The partially cultivated country it is which chiefly has inspired, and will continue to inspire, the strains of poets, such as compose the mass of any literature."(MW, 155) と語り、Thoreau はウィルダネスが文明全体の源泉や素材としては不可欠だが、人間はウィルダネスではやつれ衰えてしまうことを自覚している。ウィルダネスは動物の住みかであり、やはり人間の住む所ではない。Thoreau はウィルダネスを旅する必要性を認めながらも、文学作品を生み出すには開拓された場所、コンコ−ドが適していると認識するのである。Robert D. Richardson Jr. はコンコ−ドが Thoreau にとって“an epitome of the world"(19) であったと語り、故郷こそ世界の縮図だととらえた Thoreau の見解を明らかにする。生涯、アメリカ西部はおろかヨ−ロッパへ旅に出ることも拒んだ一途な郷土密着型の探求は、このような Thoreau の姿勢が基礎にある。 つまり、Thoreau はメインの森を観念的に大切に心の中に残して、 コンコ−ドに帰っていったのだ。

 The Maine Woodsは、クタ−ドン山で人間を拒否するかのような自然の姿に対峙して、Thoreau の自然観に動揺を与える契機となった点から、彼の生涯の中で転換期にあたる作品だ。メインの森での体験を通じて、Thoreau がコンコ−ドとメインの森の対比を明確にしていったことを確認することができる。メインの森に魅了されて原始的自然の中へ入って行った Thoreau が野性を自然の優れた特質と考えたとしても、 Thoreau がThe Cape Cod以後、コンコ−ドの自然に注目して様々な植物の種の研究に専念したことから明らかなように、コンコ−ドこそ Thoreau の探し求めていた場所であったといえよう。彼の眼はメイン州、つまり遠くを見ることよりも、コンコ−ドの身近な自然に向けられ、より詳細な知識を得るため科学的に観察することに没頭していく。Thoreau のメイン州への旅行記には彼の自然保護運動の源泉、自然観の変容、故郷への回帰願望が織り込まれ、The Maine Woodsからはそのために、Thoreau が野性に満ちた大自然に魅力を感じると同時に疎外感を覚え、部分的に開墾された土地であるコンコ−ドに戻らざる得なかった理由を見出だすことができるということができるであろう。                     

  注

 (1). Henry David Thoreau, Walden, ed. J. Lyndon Shanley (Princeton: Princeton University Press, 1971), 317-318.以下、この版による引用は括弧によってペ−ジ数を示す。
 (2). Henry David Thoreau, The Maine Woods, ed. Joseph J. Moldenhauer (Princeton: Princeton University Press, 1972), 31.以下、この版による引用は括弧によってペ−ジ数を示す。
 (3). Roderick Nash, Wilderness and the American Mind (New Haven: Yale University  Press, 1982), 89.
 (4). Nash, 88.
 (5). Richard J. Schneider, Henry David Thoreau (Boston: Twayne, 1987), 73.
 (6). James McIntosh, Thoreau as Romantic Naturalist: His Shifting Stance toward Nature (Ithaca: Cornell University Press, 1974), 188.
 (7). Nash, 91.
 (8). Schneider, 86.
 (9). Donald Worster, Nature's Economy: A History of Ecological Ideas (Cambridge:Cambridge University Press, 1985), 47.
(10). Worster, 76. 
(11). Schneider, 84.
(12). Schneider, 81.
(13). Worster, 96.
(14). Richard J. Schneider, "The Balanced Vision: Thoreau's Observations of Nature" (Ph.D. dissertation, University of California, 1973), 113.
(15). Schneider, 88.
(16). Schneider, 87.
(17). Nash, 90-91.
(18). Schneider, "The Balanced Vision: Thoreau's Observations of Nature," 123.
(19). Robert D. Richardson Jr., "Thoreau and Concord," Companion to Henry David Thoreau edited by Joel Myerson (Cambridge: Cambridge University Press, 1995), 23.

 引用書目

 1 Thoreau, Henry David. Walden, Princeton: Princeton University Press, 1971.
 2 ・・・, The Maine Woods, Princeton: Princeton University Press, 1972.
 3 Nash, Roderick. Wilderness and the American Mind, New Haven: Yale University Press, 1982.
 4 Schneider, Richard J. Henry David Thoreau, Boston: Twayne, 1987.
 5 ・・・、"The Balanced Vision: Thoreau's Observations of Nature." Ph.D. dissertation, University of California, 1973.
 6 McIntosh, James. Thoreau as Romantic Naturalist: His Shifting Stance toward Nature, Ithaca: Cornell University Press, 1974.
 7 Worster, Donald. Nature's Economy: A History of Ecological Ideas, Cambridge: Cambridge University Press, 1985.
 8 Myerson, Joel, ed. Companion to Henry David Thoreau, Cambridge: Cambridge University Press, 1995.

 (本稿は、1998年10月24日の日本英文学会中部支部第50回大会における口頭発表の内容に加筆し、修正を加えたものである。)

(大学院学生)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 12, 2000

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