"Whole Drama" としての After the Fall

萩  三恵


 

  Arthur Miller の戯曲家としての一貫性は、social dramatist と いうことでおよそのコンセンサスが出来ていると考えられる。ただ し、それはとりわけ前期の作品において認められる特質であって、 後期に入ると、その特質は変容を見せるようになる。

  After the Fall が批判の的にされるのは、このMiller の本領とも 言うべき社会性の資質が、"striptease"、(1) すなわち、暴露的な自伝作 品という酷評によってかき消されてしまうためである。ゆえに、 After the Fall は Miller の転換期に位置する作品であると見なされ るのが、一般的な一つの見解である。

  しかしながら、After the Fall はむしろ総括の作として扱わなけ れば、Miller の戯曲論を構築する哲学的要素を理解することは出来 ない。 本稿では、After the Fall を Miller  の転換の作品としてでは なく、 総括の作品とする観点から social dramatist と称される Miller の優れて心理的な自伝性を考察する。かつて Miller は、エッ セイ "On Social Plays" の中で、"I can no longer take with ultimate seriousness a drama of individual psychology written for its own sake...." (Theater Essays 57) と述べ、社会劇こそが 本流であり、反社会劇は支流であるとする理念を表している。劇作 理論において、個人の心理そのものを描く心理劇を認めない Miller は、社会性という揺るぎのないメイン・ストリームの中で、いかに して自伝性を保っているだろうか。Miller 劇の真髄である "moral" の有り様を明らかにするために、コンテクストにおいて重要な部分 を占める "trial" と "sin" の要素について考え、After the Fall を "Whole Drama"、(2) 「総括の劇」として論じたいと思う。

T

  social dramatist としての Miller の世界観には、個人が社会との 関わりにおいて、その行為が right か wrong かという問題が中心 にあるということを常に意識しなくてはならない。そこで明確にし なければならないのは、主人公 Quentin の次のような独白の意味 である。

You know, more and more I think that for many years I looked at life like a case at law, a series of proofs. That I was moving on an upward path toward some elevation, where―Gods knows what―I would be justified, or even condemned―a verdict anyway. I think now that my disaster really began when I looked up one day―and the bench was empty. No judge in sight. And all that remained was the endless argument with oneself―this pointless litigation of existence before an empty bench. Which, of course, is another way of saying―despair. (3)

ここで注目したいのは、「人生とは、訴訟中の事件、一連の証拠提出 のようなものだ」とする Quentin の人生観である。これは、Miller 自身の人生観の反映である。Miller が描く主人公たちは、何らかの 形で過ちを犯し、それで良心の呵責を感じるために、自分自身の道 徳律で自らを裁き、さらに、自分の所属する共同体の法によっても 裁かれる、という教訓主義的な解決を試みている。そういう意味で、 Miller にとっての劇とは裁判であり、Miller 自身が裁判官であると 言っても過言ではない。このような "moral code" を基底に Miller の戯曲は成り立ってきた。ところが、この作品に至って Miller は、 これまでの人生観、価値観に対して "despair" という言葉を発して いる。とりもなおさず、それは、社会を justice と injustice とに二 分する social dramatist としての自らの世界観に対する「絶望」と も受け取れるのである。したがって、After the Fall が Mi1ler 劇に おいて転換の作品なのか、 それとも、 総括のものなのかについて論じ る場合に、 劇作家、Miller の一貫性に疑問を感じるならば、その根 源は、表面的な暴露的自伝性にではなく、これまでよりも一層心理 主義的な内面性にあるとしなければならない。そして、むしろその 内面化において、Miller は自らの戯曲理念を逸脱することなく、自伝的要素との折り合いを付けていると考えるべきであろう。

  このように、第一幕が始まって間もなく Quentin によって語ら れる独白の意味を捉えることによって、"Foreword to After the Fall" に書かれた次の文は、重要な意味を持ち得るのだ。

This play, then, is a trial; the trial of a man by his own conscience, his own values, his own deeds. The "Listener," who to some will be a psychoanalyst, to others God, is Quentin himself turned at the edge of the abyss to look at his experi- ence, his nature and his time in order to bring to light, to seize and―innocent no more―to forever guard against his own com- plicity with Cain, and the world's. (Theater Essays 257)

Miller は、作品の中にしばしば弁護士を登場させ、いつも誰かが裁 かれるという一種のパターンを作っている。All My SonsDeath of a SalesmanA View from the Bridge、そして、文字通りに "court drama" である The Crucible といったそれまでの作品には、 必ず世俗の法による裁きが劇の大きな山場として配置されており、 そのパターンは基本的に同じと言って良い。そういう意味でこれま で lawyer であった Miller が、"Listener" である Quentin、つま り、作者 Miller 自身に向かって、 自らの全体的な人生の検証を展開 し、 その意義を問い、そして、"bring to light"、つまり、新たな発 見に赴こうとしているのである。そうした意味で、After the Fall と いう作品を、これまでの Miller 劇にはない内心の声による "trial"、 「裁き」の劇であるとする視点から分析する必要があろう。

U

  After the Fall において、自らの人生を「訴訟中の事件、一連の証 拠提出」として描き出すための技法について、Miller は、"The action takes place in the mind, thought, and memory of Quentin."(1) と劇のはじまりで説明している。が、それについては むしろ、「意識の流れ」そのものが表現されていると考えた方が適切 である。(3)  Miller は、chronological な時間ではなく、過去、現在、 そして、未来の場面の流れの中に psychological な時間の論理を組 み立てている。過去の「記憶」と現在の「精神状態」、そして、未来 への「思考」という異なった三つの時間における Quentin の意識 を、彼の頭の中で多層構造的 (4) に具象化しているのである。 つまり、 Quentin の複雑な心理の起伏を描き出すために、realism を基調と した表現形式を用いているということであるが、この点に関して、 Miller の expressionism は、実験的であるとして様々に批評され ている。


  Dennis Welland は、"The Drama of Forgiveness" の中で、 "The first part by contrast, is less clear in its thrust, more uneasy in its movement." (Arthur Miller 69) とMiller の劇構成 の不透明さを指摘し、表現形式について、"It is questionable whether the fragmented episodic stream-of-consciousness method is really adequate in the establishment of so many and such varied themes."(69) と疑念を表している。第二幕で、劇の焦 点が Marilyn Monroe をモデルにした二度目の妻に集中するよう になって、Quentin を巡る複雑な人間関係が分かってくるものの、 第一幕での「意識の流れ」には、現実場面と回想場面との交錯に淀 みが生じていると Welland は指摘する。そして、その根拠として、 様々な人物についての断片的な情報が、一見何の脈絡もなく連続す ることを挙げている。だが、ここで重要視すべきは、非常に抽象的 な表現が劇中に多く用いられていることであり、その結果として、 After the Fall の「意識の流れ」は良い影響を受けていると考えられ る。

  そこで、抽象的な表現の一つである "moral idiot"、「道徳的白痴」 という言葉について考える。次に引用する場面では、その表現が優 れた役割を果たしている。

QUENTIN: Louise, don't you ever doubt yourself? Is it enough to prove a case, to even win it ...?
Mickey enters at the edge of the stage. Elsie enters on second platform,...
LOUISE: turning, in full possession: ... I'm not the one who wanted to break this up. And that's all it's about. It's all it's been about the last three years. You don't want me. She goes out.
QUENTIN: to himself: God! Can that be true?
MICKEY: There's only one thing I can tell you for sure, kid― don't ever be guilty.
QUENTIN: Yes! Seeing strength, he stretches upward. Yes! But his conviction wavers; he turns toward the vision. But if you had felt more guilt, maybe you wouldn't have...
ELSIE: closing her robe: He's a moral idiot!
QUENTIN: Yes! That is right. And yet.... What the hell is moral? And what am I,to even ask that question?...(57)

最初の妻 Louise との訣別が明らかになる場面であるが、途中で舞 台の端に、友人の Mickey、同じく友人の Lou の妻 Elsie が登場す ることで、Quentin の心の思考と記憶が展開し、それによって、彼 の頭の中である問題が発展していく様子が描かれている。このよう な Louise との対立の記憶はこれより前にも提示されている。

QUENTIN: That's the point! Yes―now, now! It's innocence, isn't it? The innocent are always better, aren't they? Then why can't I be innocent?
The Tower appears.
Even this slaughterhouse! Why does something in me bow it's head like an accomplice in this place!
Mother appears upstage.
Huh? Please, if you think you know. Turning to Mother: In what sense treacherous?(30)

Louise の「事件を立証する」ように Quentin を責め立てる記憶が、 反米活動調査委員会の要求により、仲間を「裏切った」 Mickey の記 憶に繋がるのは、二つの記憶の間に "moral idiot"、「道徳的白痴」と して包括できる人間のエゴイズムが認められるからである。"innocent" か "guilty" かを明らかにしようとする行為、そして、利害意 識から仲間を売る "treacherous" な行為は、どちらも人間としての 道徳観念の欠如、あるいは、喪失に由来する。Quentin はこのよう な人間の傲慢さとは無関係のはずであった。だが、"He's a moral idiot!" というまさに人間性を問う非難の声によって、 彼は "What the hell is moral?" と自問するのである。この記憶の連鎖は、それ から、 Lou の自殺の知らせの場面へと続く。そこで、先の問いにつ いて、Quentin は "It was dreadful because I was not his friend either"(59) と答えを見出し、自分も "accomplice"、心の中で友人 を裏切っていた「共犯」ではないかという、自分の中の許しがたい 罪深さを知るに至る。

  このようにして、Miller は、Quentin にはある精神的覚醒に到達 させる一方で、それと並行して、劇の背後において絶えず理念的な ものを暗示する「塔」、すなわち、ナチス・ドイツのユダヤ人強制収 容所の意味を明らかにしている。第一幕において、謎めいたシンボ リックな存在である「塔」は、Quentin が苦渋に満ちた経験を経て、 精神的成熟の過程を終えることにより、「生き生きと輝きを放つ」 (59)。 すなわち、意識下の人問のエゴイズムを照らし出しているの である。そこで Quentin は次のように独白する。

This is not some crazy aberration of human nature to me...; I can see them laying the pipes to run the blood out of this mansion; good fathers, devoted sons, grateful that someone else will die, not they, and how can one understand that, if one is innocent? If somewhere in one's soul there is no accomplice―of that joy, that joy, that joy when a burden dies ... and leaves you safe?(59)

Quentin は、舞台全体を見下ろし威圧するようにそそり立ったいる 「塔」に導かれるように、自分が裁かれるべき存在であることを知 り、その罪を「人間性の逸脱」という形で認識する。モラリストを 装いながら、内心では友人を裏切っていたこと、そればかりでなく、 彼の死を知らされた時、危険から解放されたことに喜びさえ感じて いたという恐ろしい事実に気づいたのである。これからの Quentin が罪意識による苦悩から解かれるか否かは、人間の醜悪さを象徴す る「塔」をいかにして受け入れるかに拠ると言えるであろう。

  このような After the Fall における symbolism について、Alice Griffin は著書 Understanding Arthur Miller の中で、Stephen S. Stanton が言う "extension of guilt from the personal to the social" に言及して、次のように述べている。

The interrelationship of betrayals on the personal, professional and social levels finds effective expression in Miller's impressionistic style.(127)

After the Fall の characterization の中心は、Quentin の目から見 た愛と信頼の喪失にあると言える。彼はそれを、両親の間に、 Mickey と Lou の間に、そして、Louise と自分の問に冷静な目で 観察している。要するに、Quentin は自分を observer 的立場に置 いているのである。したがって、この段階での人間関係は、 Quentin を除いての "personal level" と "professional level" での ものと言える。一方、Miller は、断片的に蘇る様々な人物について の記憶を、効果的な「塔」の表現技巧とパラレルな状態で提示して いる。これにより、Quentin を取り巻く人々の確執の要因である "betrayals"、「裏切り」は、彼自身にも内在する、そして、全ての人 間に普遍的な性質であることが明らかにされる。

  父親に対する母親の「裏切り」は、実際に、Quentin の浮気とし て繰り返されている。また、Mickey の Lou に対する「裏切り」は、 精神的な裏切り行為として彼自身の内部でも行われているのであ る。そして、「塔」の強烈な印象によって目覚めさせられる Quentin の「裏切り」とは、反米活動調査委員会という "social level" でのも のにまで及んでいる。このようにして、Miller は「意識の流れ」の 手法において、Quentin の記憶とそれによる思考の発展を描き、さ らに、舞台装置に「塔」を象徴として用いることによって、この劇 が示す人間の性質についての問題を、"personal level" から "social level" へと広げていると言えるのである。

  Quentin の意識の中の「塔」、つまり、ナチス・ドイツの強制収容 所の塔が、人間の本質的な残酷さによる 重い歴史を物語っているこ とは言うまでもない。「塔」のイメージを効果的に配置することに よって、 Miller はこの作品に歴史的普遍性を与え、 人問の本質とも 言うべき 「罪」を描くことに成功している。 では、Miller が After the Fall において裁く「罪」とはいかなるものかを考察する。

V

  第一幕において、Miller は、内省を忘れ、自分を裁くことを忘れ、 ひたすら自己を正当化する人問のエゴイズムを Quentin の心理描 写を通して形象化した。これについて Miller は、"Foreword to After the Fall" の中で次のように述べている。

And primarily it is a way of looking at man and his human nature as the only source of the violence which has come closer and closer to destroying the race. It is a view which does not look toward social or political idea as the creators of violence, but into the nature of the human being himself. It should be clear now that no people or political system has a monopoly on violence.
                             (Theater Essays 255)

Miller によれば、「暴力をつくりだすのは、社会的な、あるいは、政 治的な理念ではなく、人間自身の本性」であり、ゆえに、人間は自 らを危険な存在として見つめ直す必要があるとしている。この主張 を具体的に明らかにしているのが、劇中の次の部分である。

And I saw that we are killing one another with abstractions. I'm defending Lou because I love him, yet the society transforms that love into a kind of treason, what they call an issue, and I end up suspect and hated. Why can't we speak with the voice that speaks below the "issues"―with our real uncertainty? (56-57)

社会的暴力そのものが危険を及ぼすのではなく、社会における自己 の位置づけを脅かす不安が人間の生存本能に作用し、これによっ て、人間を危険な存在にする。すなわち、Lou の自殺は、Quentin が自己防衛のためにとった「裏切り」と「共犯」という "abstractions"、「抽象的概念」によってもたらされた結果なのである。

  自己防衛に及ぶほどに  Quentin を悩ませる  "issues"、 〈問題〉については、Miller の自伝的要素(5)  から考えることが出来る。第一幕に おいて、 Quentin の内的成熟の過程は一つの終わりを見せているよ うであるが、第二幕では、さらなる苛酷な真実との対決が展開され る。というのは、Lou の事件のように知性で理解できる「裏切り」 ではなく、「愛」という深い人間の関わり合いから生じる根源的な裏 切りだからである。Eric Mottram は、 "Arthur Miller: Develop- ment of a Political Dramatist in America" の中で次のように述べ ている。

Both Maggie and Quentin are obsessed with an equally popular original sin: the dominance of Mother.... At least Miller suggests that only "God" can provide that "limitless love" which Quentin and Maggie demand of each other.... The desire for "innocence," limitless love and power are all based on this Unpardonable Sin,...                           (Critical Essays 51-52) (6)

Miller が描く「人間の本性」について、Mottram は、「神にのみ可 能な無限の愛」を求める者とそれを与えようとする者の両者が犯した  "sin"、「罪」と説明している。Quentin は人間の愛の限界を認識 することができたのだが、一方の Maggie は、彼の説得を聞き入れ ることが出来ない。すなわち、自分が「罪」を犯す存在であること を認めようとはせず、Quentin の破滅を要求する。こうして、生存 のための自己防衛、つまり、「人間の本性」が明らかにされるのであ る。この「人間の本性」を認識した Quentin は次のように言う。

Maggie, we were both born of many errors; a human being has to forgive himself! Neither of us is innocent.(109)

It isn't my love you want any more. It's my destruction! (110)

ますます病理性を深めつつある Maggie から自己の生存を守るた めには「人間の本性」をさらけ出して戦わなければならない。そし て、それが許されざる人間の "original sin"、「原罪」であるという 形で、Quehtin は精神的成熟を完了している。これについて彼は次 のように述べている。

And I am not alone, and no man lives who would not rather be the sole survivor of this place than all its finest victims! What is the cure? Who can be innocent again on this mountain of skulls?... I loved them all, all! And gave them willing to failure and to death that I might live, as they gave me and gave each other, with a word, a look, a trick, a truth, a lie―and all in love!(113)

記憶による思考を全て終えた Quentin は、人間のエゴイズムは本 来、生存のためのサバイバルから生じる根源的な欲求であるとして いる。 Maggie との死闘は、紛れもなく醜い「人間の本性」の表れで ある。この個人的な経験が普遍性を獲得し得るのは、Quentin の、 あるいは Mickey の、つまり、人間全ての「罪」を象徴する「塔」― が、邪悪な存在である人間の歴史的産物として、劇の背後でその意 味を支配しているからである。


Miller は、自らの経験から学んだ罪の重さを赤裸々に語る一方 で、人間の罪を楽園喪失後の普遍的な真実にまで高めることを試み た。「裁き」の劇である After the Fall は、主となる時間を現在に置 かなくてはならない。また、裁かれる「罪」は、過去になくてはな らない。Miller は、Quentin の意識における精神的成熟のプロセス に加え、自らの劇作家としての成熟をこの作品で目指している。「意 識の流れ」による多層構造的技巧は勿論であるが、単なる自伝とし て過去を顧みるのではなく、それによって、思考を展開し、新たな 真実を発見するという劇構成には、モラリスト Miller の確固とし た姿勢が見られるのである。そういった意味で、After the Fall とい う劇は、心理的自伝性をもった social dramatist としての Miller の "Whole Drama" と言えるであろう。



(1). Robert Brustein は、"Mr. Miller is dancing a spiritual striptease while the band plays mea culpa.... He has created a shameless piece of tabloid gossip, an act of exhibitionism which makes us all voyeurs." (Robert Brustein, "Arthur Miller's Mea Culpu," New Re- public, 8 February 1964, 26-27) と述べ、Miller は、女性遍歴を描く ためには手段を選ばないとして、彼の暴露趣味を攻撃した。
(2). Gerald Weales は、"Arthur Miller's Shifting Image of Man" の中 で、"Whole Drama" という表現を用いて、Miller の社会的戯曲につい て言及している。本論では、Miller が "On Social Plays" で論じるとこ ろの「社会劇」という意味としてだけでなく、「総括の劇」という意味で "Whole Drama" という言葉を用いる。
(3). Death of a Salesman (1949) も原題 'The Inside of His Head' が示 すように、主人公 Willy Loman の意識の内面を扱っているが、むしろ、 After the Fall の方が、「彼の頭の内部」を描き出す手法は極度に内的で あると考えられる。前期の作品と比べ、概して、After the Fall は infe- rior であるとされるが、「意識の流れ」を展開した表現技巧については 賛否両論があって、しばしば問題にされている。
(4). 舞台は半円形の三層の平面から成っている。奥が最も高く、その背後 には、ドイツの強制収容所の石造りの塔がそびえ立っている。下の二つ の平面は、造形的な空間で、溶岩によって形成されたような地形になっ ている。(倉橋健訳『アーサー・ミラー全集V』5) なお、一番上のプ ラットフォームは、Quentin がこれまでに関わった人々による「記憶」 の空間であり、下二段のプラットフォームは、Quentin の心の中、つま り、「意識」の空間である。
(5). Miller は、1956年に House An-American Activities Commitee に 呼ばれ、共産党作家会議に出席した者の名前を挙げるよう求められた。 彼は、これを拒否したために国会侮辱罪にとわれ、1957年5月に有罪とさ れたが、1958年8月の訴訟審では無罪となった。また、私生活では、二 度目の妻である Marilyn Monroe との結婚 (1956年)、離婚 (1961年)、 三番目の妻となる Ingeborg Morath との結婚 (1962年2月)、Monroe の死 (1962年8月) など話題を集めた。
(6). Eric Mottram は、Quentin と Maggie の愛憎劇の根底には、"the dominance of Mother" があると述べている。Miller は Maggie を描く にあたって、Maggie の意識下に働く母親の支配を描いている。これは、 母親から十分に独立していない自我意識の未熟さを示している。 Quentin と Maggie が争う場面などに Quentin の母親の声が聞こえる のは、Quentin の苦悩を構成する要素に母親によるものが存在するか らであり、彼の母親の断片的な記憶や声による Quentin の意識の繋が りは重要である。


参考書目録

Bloom, Harold, ed. Arthur Miller, New York: Chelsea House, 1987.
Corrigan, Robert W., ed. Arthur Miller: A Collection of Critical Essays, Englewood Cliffs, NJ.: Prentice, 1969.
Griffin. Alice. Understanding Arthur Miller, Columbia, SC.: South Car- olina UP, 1996.
Martin, James J., ed. Critical Essays on Arthur Miller, Boston, MA.: G. K. Hall & Co. 1979.
Martin, Robert A., ed. The Theater Essays of Arthur Miller, New York: Viking, 1978.
Miller, Arthur, After the Fall, New York: Viking, 1964.
Moss, Leonard, Arthur Miller, New York: Twayne, 1967.

(本稿は、1998年10月24日の日本英文学会中部支部第50回記念大会に おける口頭発表の内容に加筆し、修正を加えたものである。)

大学院学生(1998)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 23, 2000

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