ふたつめの終焉へ
『セールスマンの死』と『橋からの眺め』 に見るゆがんだ愛情の真実

萩  三恵


 

はじめに

  アーサー・ミラー (Arthur Miller, 1915一) の『セールスマンの 死』(Death of a Salesman, 1949) が、戦後のアメリカ演劇を代表 する秀作の一つであることは、解釈や評価の問題を残しつつも、否 定できない。ミラー初期の作品である『セールスマンの死』と、同 じく初期のミラー劇の特質を有する『橋からの眺め』(A View from the Bridge, 1956) は、彼の社会劇作家としての一貫性を表現し たものである。両者に共通する主題を確認しようとするとき、ジェ ラルド・ウィールズ (Gerald Weales) による次の記述は重要であ る。

ミラーは All My Sons (『みんなわが子』) から A View from the Bridge に至るまで、その主人公を、社会がイメージの創造主として機能 する状況に置く。そして、・・・英雄的犠牲者は、決まって破滅への道を たどることになる。皮肉なことに、その破滅は、社会が人間に演じるよ うに求めたり強いたりする役割を彼が受け入れると拒絶するとにかか わらず、必ず訪れることだ。(1)

主人公たちの背徳行為が明らかになる場面に、自我と社会との緊張 関係を論じるウィールズは、彼らの終末に決定論的宿命感を認める のである。このような分析が許されるのは、ミラーが50年代に『戯 曲全集』に寄せた洞察力溢れる「序論」("Introduction to the Collected Plays") をはじめとして、「悲劇と庶民」("Tragedy and the Common Man")、「社会劇について」("On Social Plays")、 「神々の影像」("The Shadows of the Gods") などの優れた演劇論 を発表し、その思想的内容をいっそう明確にしたからである。 本稿 では、これらの演劇論をもとに、とりわけ悲劇か否かをめぐって議 論される『セールスマンの死』と、その7年後に発表された二幕劇 『橋からの眺め』から、ミラーが現代悲劇の創造を目指して描いたふ たっの終焉について論じたい。なお、ここでは特に、彼らの死を取 り巻く内的、外的の二種類の要因をドラマティック・アイロニーを 深めるものとしてとらえ、「思想的な劇作家」と形容されるミラーの 戯曲に対する姿勢を検討したい。

1.  ミラーの "social play"

  いくつかある論評のなかのひとつである「社会劇について」は、『橋から の眺め』の1955年版の序文でもあるが、ミラーはこの中で、50年代 のアメリカ演劇が主観的な心理劇になっていく傾向を批判し、同時 に、独自の「社会劇」を唱え、次のように主張している。

.... there is a world to make, a civilization to create that will move toward the only goal the humanistic, democratic mind can ever accept with honor. It is a world in which the human being can live as a naturally political, naturally private, naturally engaged person, a world in which once again a true tragic victory may be scored. (2)

一般に、アメリカ演劇で言われる社会劇とは、社会主義文学におけ るように、人間を抑圧する社会の悪を暴露することを目的とする が、ミラーはそれとは異なる見解を示す。「ヒューマニスティックで 民主主義的な精神」のための目標を確立すべく、彼はギリシャ劇に 社会劇のあり方を求め、それを基盤にしたことをこのエッセイで記 している。ギリシャ社会では、市民はポリスに属し、誰もが政治面 の枢要な決定に参加していた。市民としての問題に関わるという社 会意識抜きにして、完全な人生などは考えられなかったという。そ のため、劇作家たちは、社会的動物としての人間関係について書く ことを目差したというのである。このようなギリシャ観には、ミ ラーの「社会劇」についての概念が、現代の劇一般から区分される 理由があるのだが、それだけでなく、現代演劇の心理劇傾向のなか にあって、ミラーの戯曲理論が特徴的と解釈される根拠をも認める ことが可能となる。

  『セールスマンの死』が最初に上演されてから17日後、 ミラーは 『ニューヨーク・タイムズ』に「悲劇と庶民」を発表して、平凡な人 間を主人公とした「現代悲劇」の誕生を謳った。そして、『橋からの 眺め』では、最初の一幕劇に「社会劇について」を序文として付け て、「社会劇は全人間の劇である」と修正を施し、また、ギリシャ悲 劇への志向を見せて、改めて悲劇創造への意欲を表した。そのため に、「知性の限界や認識力の欠如、また悲劇の主人公であれば当然受 けるはずの称賛の念を阻むように働く彼の卑劣さ」 (3) が、二人の主人 公に問われたのである。しかし、ミラーは、劇作家としての自らの 信念を樹立することで、批評家たちに対して、悲劇における根本的 な定義の違いを指し示している。

It means that he can only conceive of man as a private entity, and his social relations as something thrown at him, something "affecting" him only when he is conscious of society. I hope I have made one thing clear to this point―and it is that society is inside of man and man is inside society, and you cannot even create a truthfully drawn psychological entity on the stage until you understand his social relations and their power to make him what he is and to prevent him from being what he is not. (4)

社会における個人の義務と、それによってのみ人は存在が許され る、というミラーの独特な判断の基準は、悲劇の主人公としての資 質として、個人の生き方そのものを尊重するよう意図されたものな のである。したがって、ミラーは、彼に劇構想を発展させたギリ シャ的観念によって、社会問題を展開しつつ、そしてまた、個人の 正確な心理描写にも焦点を当てることの可能な方法をうち立てるこ ととなった。"The fish is in the water and the water is in the fish." (5) ともたとえているように、ミラーの心理劇は社会劇という水 を得た魚となって、『セールスマンの死』に生まれ、『橋からの眺め』 で成長したと言えよう。

2. 第一の「法」

  父親としての、あるいは、父親的な立場をもった二人の主人公た ちの終焉、つまり、彼らの死の秘密について考えるとき、岩波茂雄 氏の言葉を借りれば、「真理は万人によって求められることを目ら 欲し、」そのために私たちは、この深刻な限界を探求するように動か されるのである。ミラーは、"how men ought to live" という古代 より不変とされる問題を、"learning how to love" として劇中に 明示しようとした。この壮大な理念が、ミラーの劇を支配している と認識でき、それを観る者の関心についてもまた、同様のことが言 えるのである。そして、ある一定の家族パターンを築くことで、ミ ラーは、劇についての概念を成立させている。この点については、 レオナード・モス (Leonard Moss) が次にように論ずる。

... conflict between father and son prefigures tragedy's "revolutionary questioning" when the child affirms his independence after confronting an intolerant parental authority. (6)

モスは、『みんなわが子』と『セールスマンの死』で用いられている 構図を、核心に迫る父子間の軋轢として説明するのだが、同じ心理 的真実は、『橋からの眺め』においても考えることができる。 モスの 言うように、『みんなわが子』のジョー・ケラー (Joe Keller) と、 『セールスマンの死』のウィリー・ローマン (Willy Loman) の人 生において、子供への愛情がその大部分を占めていることに着目す るのは、必要不可欠と言ってもよい。ここでは、モスの構成する 図を『橋からの眺め』に求めて、その主人公、エディー・カーボン (Eddie Carbone) に他の二人と同じく、死への道を選ばせた皮肉な 運命について解明したい。『セールスマンの死』と『橋からの眺め』 において、ミラーが描く主人公たちの愛情は、その基盤を成す揺る ぎない信条により、本来のニュアンスを変容させていくことにな る。

  『セールスマンの死』では、ウィリー・ローマンの人生における失 敗は、価値観の異なる子供に自分の価値観を押しつけたことであ る、と息子の口から聞かされる形で確定される。ウィリーの愛情は、 彼の理想とする人生を息子に託すことで体現されており、愛情を与 え、与えられることによって、ウィリーは家長としての威厳を保っ ていた。この愛情によって、家庭での居場所を確保していたウィ リーには、さらに、勤め先を解雇されることで、もう一つの居場所 を失う絶体絶命の挫折感がもたらされる。セールスマンという社会 における一応の地位と、父親という家庭での地位という、この二つ の地位に関わる喪失感は、存在の危機につながり、それぞれに主人 公を抜き差しならぬ悲劇的状況に追い込んでいくのである。

  ウィリーが人生の落後者になるに至った原因は、彼の浅はかで、 理解力に欠けた性格であると指摘して、ウィリーから悲劇の主人公 としての資格を奪おうとする批評が多く見られる。ところが、これ に対しては、性格上の欠陥よりも重要視すべき問題が、『戯曲全集 「序文」』の中に作者自身によって提示されているのである。

How can we respect a man who goes to such extremities over something he could in no way help or prevent? The answer, I think, is not that we respect the man, but that we respect the Law he has so completely broken, wittingly or not, for it is that Law which, we believe, defines us as men.(7)

悲劇的人物への尊敬の念は、その人物の性質に対して感じるのでは なく、彼が破ってしまった「法」の重要性と、それによる罪の重さ に抱くものである、とミラーは述べている。その「法」を尊重する ことによって、私たちは人間としての存在を認められるのであり、 ゆえに、ミラーの論じるこの「法」には、いかなるものにも勝る権 利が与えられていると解釈できる。

  ウィリーの失敗は 『橋からの眺め』 においても繰り返され、 生存 のための「法」は、さらなる大きな力を帯びている。エディーの場 合は近親相姦的な愛情であるため、文字通り、法に背くもの以外の 何物でもありえない。また、法に携わる人物を有効に登場させてい ることも、この劇に根源的な「法」を成立させるのに効果を上げて いると考えられる。弁護士という立場にあるアルフィエリ (Alfieri) は彼にこう助言する。

Eddie, I want you to listen to me. You know, sometimes God mixes up the people. We all love somebody, the wife, the kids― every man's got somebody that he loves, heh? But sometimes ... there's too much. You know? There's too much, and it goes where it mustn't.(409)  (8)

『橋からの眺め』は、父子関係よりも三角関係を扱った家族劇にな っている。エディーは、姪のキャサリン (Catherine) に対する 保護者としての役割に固執するだけに留まらず、彼の中にある 別の感情を無意識のうちにエスカレートさせ、倫理から逸脱した情 熱を露にしていく。そして、ロドルフォ (Rodolpho) という青年が 現れたことで、精神的葛藤は異常なまでに膨れ上がり、理性の平衡 を失ったエディーを人生の破局へと進ませるのである。アルフィエ リはこうした事のいきさつを、賢者を代表する冷静さで見極め、も う一度、彼はエディーに諭す、というよりは、警告している。

I heard what you told me, and I'm telling you what the answer is. I'm not only telling you now, I'm warning you―the law is nature. The law is only of word for what has a right to happen. When the law is wrong it's because it's unnatural, but in this case it is natural and a river will drown you if you buck it now.(424)

エディーに親子間の「自然の法則」を説いて、正常な意識への回復 を促そうとするのである。ウィリーは、息子のビフを "Adonise" (9) と 呼んで、彼の将来に過剰な期待を寄せ、間違った処世術を教えた。 息子の生き方に妥協することが出来なかったウィリーも、エディー 同様「自然の法則」に背き、歪曲した愛情の渦に呑まれたというこ とになる。しかしながら、倫理観から罪の重さを測るならば、エ ディーの愛情が、決して許されないものであることは言うまでもな い。

  さらに、混乱した心理状況が引き起こすあくなき猜疑心から、エ ディーは、ロドルフォを密入国者として通報する。地域社会からの 追放は免れない行為にまで及んでしまったのである。自らが招いた 不条理と矛盾により、必然的終局を迎える様子には、ウィリーと同 じアイロニーが感じられ、理不尽と言えども、ペイソスの感情を覚 えずにはいられない。彼らの苦悶する姿に私たちが心を動かされる 要素について、ミラーはこのように書いている。

The quality in such plays that does shake us, however, derives from the underlying fear of being displaced, the disaster inherent in being torn away from our chosen image of what and who we are in this world. (10)

彼らは、外では社会的機構に所属し、そうすることで、家では我が 子の愛情を得ることができるという理想図に執着するあまり、現実 とのギャップに折り合いを付けることが出来なかった。よって、自 己の「イメージ」を喪失した二人の人間は、絶望的に存在を揺さぶ られ、抗うことのできないフラストレーションに苦悩するしかな かったのである。

3.  第二の「法」

  ミラーは1915年、ニューヨークに生まれ、ブルックリンで育っ た。『セールスマンの死』と『橋からの眺め』の舞台には、この作者 が育った街の思い出が描かれているが、同時に、その時代とは異な るものが、歴史的背景として潜在的に置かれている。ウィリーとエ ディーの自滅の因を明白にする場合、それは、主人公たちの栄光と 名誉の渇望と不可分に結びついているものと考えられる。そして、 この劇の根源的な部分を形成しながら、運命を越えられない人間の 生き様を描き出すことに、強い影響力を与えているのである。

  『セールスマンの死』では、「じょうじょうとした響きで、草原と 木々と地平線を思わせる」 (11) フルートの旋律を劇を通して効果的に 印象づけることで、ウィリーのなかには一世代前の社会通念が生き ており、隠された原因として据えられていることが暗示されてい る。ウィリーが思いを馳せる時代とは、意欲のある者なら誰でも一 獲千金の夢が可能な、西部開拓の時代である。また、劇の終わりで は、フルートの音楽だけを残して、「ローマン家の向こうに、あじけ ない高層のアパート群が浮かび上がり、鋭くくっきりと見えてく る。」 (12) フルートの音とアパートの群れは、アメリカの過去と現代を それぞれに象徴するものであろう。

  西部発展の時代は、アメリカとアメリカ人に成功と結びつく物 質を与えてきたが、19世紀末のフロンティア消滅にともなって生ま れたアメリカの資本主義体制が、その構造を農業から工業重視へと変え ることによって、情勢は急速な推移を見せた。ウィリーは、アメリ カ的素質を父親から譲り受け、セールスマンとしての職業を一生の 仕事に選んだのであるが、販売のテリトリーを広げるという面に、フ ロンティーアの開拓を応用したのであろう。確かに、アメリカの商 業資本の成長期には、セールスマンが第一線の開拓者的役割 を果たしてきた。しかし、これもまた、歴史の一部になってしまっ たのである。

  こうした舞台上の二元的時代は、一つは理想、もう一つは現実と して、一人の人間を精神的錯乱へと陥らせる環境となった。 ウィ リーを苦しめた外的要因を、ジョン・ガスナー (John Gassner) は 「社会的因果性」と呼ぶのだが、随所に見られる社会的側面への言及 は、ミラーの弱点として批判されながらも、決してそれだけのもの ではないことも明らかである。トム・F・ドライバー (Tom F. Driver) は、以下のように評している。

These, then, are the strengths of Arthur Miller :an acute awareness of "public" nature of theatre, the desire to see and report life realistically ... and a desire to see a theatre of "heightened consciousness." By putting these concerns before the public, Arthur Miller has shown that his sights are higher than those of any of his competitors at the Broadway box-office. The fact that such concerns exist in a playwright of his prominence is proof that our theatre is still alive. (13)

彼は、現代のアメリカ演劇がもっぱら心理劇の傾向にある点を批判 し、写実主義的な思想を基底にしたミラーを、ある意味では戯曲家 として高く評価している。ミラーの社会的側面への関心が最も感じ 取られる場面として、例えば、"You can't eat the orange and throw the peel away―a man is not piece of fruit."(181) とい うウィリーの言葉は、能率重視のために長年勤務した会社から解 雇される労働者の心境を語っているものと考えることができる。人 間までも廃棄物同然の哀れな境遇にまで追い立てた社会を的確に 描写しているからである。

  もともと、息子の尊敬と職場での地位を失ったことで生じた理想 と現実との落差は、さらに、他者からの疎外感という形でウィリー の心理を狂気へと駆り立てる。ミラーは、「疎外感」を次のように説 明する。

The deep moral uneasiness among us, the vast sense of being on1y tenuously joined to the rest of our fellow, is caused, in my view, by the fact that the person has value as he fits into the pattern of efficiency, and for that alone. The reason Death of a Salesman, for instance, left such a strong impression was that it set forth unremittingly the picture of a man who was not even especially "good" but whose situation made clear that at bottom we are alone, valueless, without even the elements of a human person, when once we fail to fit the patterns of efficiency. (14)

ミラーによれば、「人は有効性のある機構にぴったりとはまってい るときに価値がある」のだ。すなわち、その有効性のある機構に自 分をはめることができなければ、非情な疎外感に苦しまなければな らない。ウィリーがその身を置くことに決めた機構は、彼の理想を 育み、精神構造の基礎とした開拓精神を生かせる場所であるかのよ うに見えた。しかし、結局は、社会において「有効」どころか、全 く無効な様相を露呈するだけだったのである。

  『橋からの眺め』のなかにも、歴史的要素を含んだ別の世界が造り 上げられている。舞台であるニューヨーク、ブルックリン区のレッ ドフックと呼ばれる港湾地区は、かって、アル・カポネなどのギャ ングが横行した土地であり、何よりも仁義が先行する世界であっ た。19世紀以来、シチリアの政治と住民の生活を支配してきたマ フィアの勢力は依然として強く、これがアメリカにも浸透していた ことが知られている。時代は変わってきているものの、エディーは、 イタリアからの移民が多く住むスラムで生活する者として、仁義を 心得ていたはずである。だからこそ、密入国者のロドルフォたちを かくまったのだ。エディーを含むレッドフックに住む人々は、アメ リカ人としての生活に慣れてしまったとはいえ、彼らは、シシリー 島での慣習を価値観や道徳観の面に受け継いでいたからである。こ のように、移民の歴史は、現実生活の背後に存在することによって、 そこに生まれた特異な社会観念を普遍的なものにしていると言え る。

  では、『橋からの眺め』の二元的時代には、いかなる効果が認めら れるだろうか。「社会劇について」でミラーが論ずる「有効な機構」 と、それから外れたことに由来する「疎外感」とのつながりには、 人が社会で生活する最小単位の共同体で行使される「法」が存在す るのである。レッドフックという共同社会では、他人に対する責任 と、社会への道徳的な関わり合いが暗黙のうちに重んじられてい る。例えば、14歳の少年が、自分の叔父を密告した事件を思い起こ す時も、エディーは、"You'll never see him no more, a guy do a thing like that? How's he gonna show his face? Just remember, kid, you can quicker get back a million dollars that was stole than a word that you gave away."(389) と仲 間を裏切るようなことがあれば、世間に顔向けが出来なくなること を充分に承知している。ウィリーは、現実を直視することから逃げ、 虚偽の世界に住むことを望んだために、実際に「有効な機構」から 除名された。ところが、エディーは「有効な機構」に属し、しかも、 そこから外れることが、致命的な処分に値することを知っていなが ら、目ら脱退したのである。純粋な意味での法、すなわち、モラル さえも否定しようとしたのであった。

4.  掟と死

  ウィリーは息子の愛情を、そして、エディーは姪の愛情を回復す るために、運命として課せられた闘争に命を賭けた。だが、果たし て彼らの終焉は、愛情の為だけのものだったのか。それぞれの終局 に焦点を当てて考察する必要があろう。

  疲労困憊したウィリーにとって、現実とは、挫折と絶望の連続で あるように感じられるが、まるで一筋の光のように、彼に望みをも たせてくれる人物がいた。ウィリーの亡くなった兄、ベン (Ben) で ある。 彼は幻となってウィリーの前に現れ、"what's the secret?" (188) という弟の問いに、"when I was seventeen I walked into the jungle, and when I was twenty-one I walked out. And by God, I was rich."(157) と呪文のように答える。ウィリーとベ ンとの会話が意味するところは、私たちにとっても、また、ウィ リーにとっても断片的なものでしかないため、劇中の幻想や独白対 話は、現在に侵入してくる過去の力をますます強烈にするばかりで なく、ウィリーの混乱した頭を狂気へと導いてゆくことにもなる。

  しかし、彼の頭の中で巧みに展開される過去と現在、事実と虚構 が一つのストーリーとしてつながった時、 その "secret" は解き明 かされるのである。それは、社会において生存するための秘訣であ り、そして、ウィリーが死ななければならなかった秘密であると。 人生の先輩であるベンは、事業において成功を収め、弟に共同経営 者にならないかと誘ったことがあった。しかし、この時ウィリーは、 セールスマンの道を選んだのだ。ベンの持ってきた仕事とは、購入 したアラスカの森林地を管理して欲しいというものである。広い戸 外で体を動かす職業の方がウィリーには合っているというのに、 彼は自分の適正な能力を見抜くことができなかった。そのうえ、時 代の流れにも適格に対応することができなかった。大戦を機に、ま すます急速に進展する都市化・機械化の現代文明と、資本主義社会 における無情な競争の中で、ウィリーは、そういった現実を捉え ることができずに、社会における不適応者となってしまったのであ る。

  ウィリーが人生を終えようとする瞬間を見れば、ベンの正体が明 らかになる。ウィリーは、自動車事故による保険金目当ての自殺を することで、息子に人生をやり直すための資金を残してやろうする。 しかし、ウィリーは単独で行ったわけではなく、ベン に導かれるまま、死のジャングルに足を踏み入れたのだ。"The jungle is dark but full of diamonds, Willy."(218) "Time, William, time!... The boat. We'll be late."(219) とウィリー を死の世界へ連れていったベンは、ただの幻ではなく、ウィリーを 迎えに来た使者だったのだ。客観的な社会の生存条件と向き合うこ とが出来なくなった者は、もはや、生きてはいられないという「掟」 に従って、ウィリーは終焉を迎えたのだ。

  もう一つの終焉を描いた『橋からの眺め』は、ミラーがブルック リンに住んでいた時、近所の人から聞いた話がモデルになってい る。激情の果ての結末でありながらも、シシリー島出身 のイタリア移民たちの特殊な人問関係が絡むこの事件は、許されない愛ゆえ のものと簡単に終わらせてしまうことは出来ない。次の情景描写に は、複雑に入り組んだ緊張感が漂っている。

Marco is face to face with Eddie, a strained tension gripping his eyes and jaw, his neck stiff, the chair raised like a weapon over Eddie's head―and he transforms what might appear like a glare of warning into a smile of triumph, and Eddie's grin vanishes as he absorbs his look.(417)

マルコはロドルフォの兄で、弟と二人でエディーの家に身を寄せて いるが、第1幕では、エディーの心理的葛藤があまりにも印象深い ために、この場面に至るまで、マルコの登場人物としての役割に関 心を寄せることはなかった。キャサリンをめぐっての三角関係か ら、ロドルフォに興味を示すことに重きを置いていたからである。 そのマルコが、まるで武器のようにエディーの頭上に椅子をかざし て、彼と向かい合っている。マルコは、密入国者である自分たちを かくまってくれるエディーに対してただひたすらに遠慮し、自己主張 は控えてきた。これまでその立場を守ってきたマルコが、警告する ような目でエディーを見るのである。二一ル・カーソン (Neil Carson) も、この劇展開に注目している。

Even more interesting than the alteration in form, however, are the changes Miller made in the central character. In this revised version, Miller plays down Eddie's physical passion for Catherine and focuses instead on his relationship to Marco. In the concluding minutes of the play it is Marco's insult, not Rodolpho's rivalry, which is foremost in Eddie's mind. (15)

キャサリンからロドルフォを引き離すために、密告という背徳行為 を選んだエディーにとって、対決する相手は、当然、ロドルフォだ と思われたのが、実はマルコに移ってしまっていたのである。移民 官に連行されて行くロドルフォは、エディーの顔に唾を吐き、皆の 前で軽蔑の言葉を浴びせる。確かに、エディーは人間として最低 の行動をとってしまったのだから、それも無理はない。しかしなが ら、エディーの主張には、ロドルフォを非難しうる一つの根拠があ る。劇の終わり近くで、エディーは言う。

He knows that ain't right. To do like that? To a man? Which I put my roof over their head and my food in their mouth? Like in the Bible? Strangers I never seen in my whole life?... Wipin' the neighborhood with my name like a dirty rag! I want my name, Marco.(438)

エディーは、マルコ兄弟に寝る場所と食べ物を提供したことを、尊 敬に値すると主張するのである。どんな名誉な行いをもってして も、彼の罪は決して許されるものではない、それほどの取り返しの つかない過ちを犯しておきながら、エディーはただ、狂人のように 名誉の回復を要求する。最初から、エディーは、マルコたちの世話 を引き受けることを快くは思っていなかった。"You're savin' their lives, what're you worryin' about the table cloth?... Listen, as long as they know where they're gonna sleep." (382-383) と、マルコとロドルフォは、自分たちがどこで寝るべき かをわきまえなくてはならない立場にある、と本音を表してもい る。要するに、「おれの顔に塗った泥を、みんなの前で、ちゃんとお とせ! おれの名誉を返してくれ」と訴えるのは、地域社会における 名誉と尊敬を取り戻すことで、自己のアイデンティティを再建する ためなのである。さもなくば、恩知らずの人間には罰が下ることを、 エディーは叫んでいるのだ。

  では、対するマルコは、何のために闘いに臨んだのだろうか。両 手で椅子をエディーの頭上に振りかざした時、マルコの「警告する ような目の光は勝利の微笑に変わりエディーの顔からは 笑いが消えた。」(16)  その椅子は、イタリア人としての尊厳を力で見せたもので あったために、エディーはマルコに脅威を覚えたのである。純粋に、 マルコは、ロドルフォとキャサリンの結婚を祝福したかったのか、 それとも、エディーの言うように、キャサリンと結婚することで、 ロドルフォが市民権を得ることを喜んだのか。弟の幸せを願う兄の 気持ちは感じられるが、その反面、イタリア人移民が、アメリカ人 として生きていくための一つの手段ではないかと感じないわけでは ない。腹を空かせて泣く赤ん坊に、骨を煮た水を飲ませることしか 出来ないマルコたちの故国の現状を思うと、それも仕方のないこと だろう。

お互いに後戻り出来なくなったエディーとマルコは、 極限状況に 立たされている。ここでミラーは、エディーから受けた恩を仇で返 したマルコであるにもかかわらず、「法律」という言葉を彼に使わせ ている。"All the law is not in a book.... He degraded my brother. My blood. He robbed my children, he mocks my work. I work to come here, mister!"(434) マルコの主張は、 イタリア人としての、あるいは人間としての自尊心を甚だしく傷 つけた罪によって、エディーを罰することを求めている。しかし、 実際の法律にはそのような権利はなく、むしろ、罪人はマルコの方 とされている。それゆえに、マルコがエディーを裁くのである。

  激突の結果、エディーはマルコに敗北した。いや、彼は死に赴く 覚悟を決めていたのであろう。もはや万策は尽き、二度とキャサ リンの愛情を得ることも、地域社会で信用されることも不可能と なってしまった今、残された道は死だけなのだ。こうしてエ ディーは、シシり一島の、そして、レッドフックの掟によって葬ら れたのであった。ブルックリン生まれの劇作家、アーサー・ミラー は、血よりも濃い街の掟と死の制裁を描いたのである。


まとめ

  ウィリーとエディーの終焉は、歪んだ愛情で子供を育てたため に、親が子に捨てられるという図では決してない。誰も二人を愚か 者と嘲ることはできない。彼らの死には、幾重にも響き合 うように意図された目に見えない力が、微妙にその行方を決めるから である。しかし、アルフィエリは「真実」に勝るものはないと語る。

Most of the time now we settle for half and I like it better. But the truth is holy, and even as I know how wrong he was, and his death useless, I tremble, for I confess that something perversely pure calls to me from his memory―not purely good, but himself purely, for he allowed himself to be wholly known.... And yet, it is better to settle for half, it must be! And so I mourn him―I admit it―with a certain ... alarm.(439)

事件の全てを予見レていたアルフィエリは、自らの感情にしたがっ て命を終えたエディーの死を「人間の業」と呼ぶ。社会における人 間のあり方を問うミラー劇の本質について考えるとき、"how men ought to live" という課題に対し、エディーはウィリーより も更に大きな、かつ、より根源的な力の犠牲者として取り組んで見 せた。"The relationship of all this to the play and to Eddie's character seems to me to be extremely obscure. Alfieri is contrasting the sensible people who settle for half and the potentially tragic individuals who cannot let well enough alone." (17) と二一ル・カーソンは、エディーの情熱に見られる普遍 的、古典的な性質と、彼の人間性の問題との関わりを問題視してい る。ウィリーの場合と比べて、エディーの生き方には、人間的ドラ マの構成要素と成りうるものが、社会を越えて、人間的条件そのも のに触れようとする域にまで生かされている証拠と言えよう。ミ ラーは、『セールスマンの死』から『橋からの眺め』にかけて、その 戯曲理論を保ちつつも、広大な神秘と対決しようとする、情熱を もった主人公の終焉を描き出すことの可能な新境地を見つけたので ある。



(1). D. L. Kirkpatrick (ed.), Reference Guide to American Literature, 2 nd Ed (Chicago: St. James Pr., 1987), 390. 邦訳は、岩元巌・酒本雅之 監修『アメリカ文学作家作品事典』(東京、本の友社、1991)所載の石塚 浩司氏による。
(2). Arthur Miller, "On Social Plays," The Theater Essays of Arthur Miller, ed. Robert A. Martin (New York: Viking, 1978), 57-58.
(3). ノーマンド・バーリン、長田光展・堤和子・若山浩訳『悲劇、その謎』 (東京、新水社、1987) 301頁。
(4). Arthur Miller, "The Shadows of the Gods," The Theater Essays of Arthur Miller, 185.
(5). Ibid., 185.
(6). Leonard Moss, Arthur Miller (New York: Twayne,1967), 101.
(7). Arthur Miller, "Introduction to the Collected Plays," Arthur Miller's Collected Plays (New York: Viking, 1957), 35.
(8). Arthur Miller, Arthur Miller's Collected Plays 以下、作品からの引 用は上掲の書により、括弧内に真数を記す。
(9). 女神アフロディテに愛された、ギリシャ神話に出てくる美少年。人に 好かれる人柄さえあれば、社会で成功することが出来るというウィリー の人生哲学を象徴していると考えられる。
(10). Arthur Miller, "Tragedy and the Common Man," Theater Essays of Arthur Miller, 5.
(11). 倉橋健訳、『アーサー・ミラー全集T』(東京、早川書房、1988) 140 頁。
(12). 同上、320頁。
(13). Tom F. Driver, "Strength and Weakness of Arthur Miller," Arthur Miller, A Collection of Critical Essays, ed. Robert W. Corrigan (Englewood Cliffs, N. J.: Prentice, 1969), 61-62.
(14). Miller, "On Social Plays," Theater Essays, 59-60.
(15). Neil Carson, "A View from the Bridge and the Expansion of Vision," Arthur Miller, ed. Harold Bloom (New York: Chelsea House, 1987), 100.
(16). 倉橋健訳、『アーサー・ミラー全集U』(東京、早川書房、1993) 81頁。
(17). Neil Carson, "A View from the Bridge," Arthur Miller, 101.

大学院学生(1997)

The Chukyo University Society of English Language and Literature
Last modified: Oct 23, 2000

Previous